帰郷 2011... 知覧

2011年10月17日

今回の帰国の目玉でした。
帰郷 2011... 知覧

知覧「特攻平和会館」

帰郷 2011... 知覧

妹が仕事を休んで、つき合ってくれました。
(自分で運転して行ったら、おそらく迷子になってただろう)


我が子を特攻隊員として送った、母の像。
この像の前に立っただけで、祈念館に入るまえから涙が出てきました。
帰郷 2011... 知覧


館内に入ると、まずこの絵が目に入りました。

(館内はカメラ撮影禁止だったので、これはサイトから拝借したもの)
帰郷 2011... 知覧

撃沈する戦闘機から、特攻隊員を抱き上げて昇天させる天女の絵
夫とふたり、しばらく立ち止まって見入りました。



平和会館に到着するまでは

見た目「アメリカ人バレバレ」の夫を連れていって 大丈夫だろうかと
一抹の不安もあったけれど
http://hanayu0413.chesuto.jp/e649853.html

奇異の目でみる人など、1人もおらず (ホッ...)


あいにく、この日は彼以外に外国からのお客さんは見かけなかったけれど
海外からの参館者も多いようで

ちゃんと英語での案内器(イヤホン付き)も 
貸し出してくれました

夫は
壁一面に並んだ 特攻隊員のお顔を見上げながら
その人たちにまつわるストーリーを
熱心に英語で聞いていました。

その横顔を見ながら

何を考えているのだろう。大丈夫かなと

ちょっと心配になったりして。


「大丈夫?」と聞いてみたら

一言ぽつり

夫:They are all so young...


ホントに
まだ あどけなさの残る特攻隊員のお顔も
いくつもいくつもあった。



この日は修学旅行の団体さんも多く、
その度に館の方が 生徒たちに向けて詳しく説明してらっしゃるのを
便乗して一緒に聞けるという ラッキーなことも。




そして展示された 直筆の遺書のかずかず
その中には
必ずといっていいほど 家族への「感謝のことば」が。。。

夫に「これはなんて書いてあるの?」と訳を聞かれても
達筆すぎて読めないお手紙も(汗)

死の間際に
こんなに美しい文字で
こんなにしっかりとした文面で

感謝の言葉を綴れる若者が 
この現代にどのぐらいいるだろうか。

私だって18〜19歳のときに こんな手紙は到底書けなかった。。。
自分がこの年になって改めて
その魂のこもった文字に 畏敬の念を抱かざるを得ない気持ちでした。


「お父さん、お母さん、今まで育ててくれてありがとうございました」

「恩返しもできず逝く親不孝を、お許しください」

「○○ちゃん(妹さんの名前)、お母さんのいいつけをよくきいて...」

「兄はお星様になって いつもお空から見守っています」




そうした文面を 夫のとなりで訳しながら

私:みんなただ 大事な人を守るために戦ったんだよね。
  日本人もアメリカ人も それは同じだったよね。


と思わず言葉が出た。

夫:Of course





館の外にでてから 隊員が最期の数日間を過ごしたという
「三角兵舎」へ
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ビックリするほど小さく
質素な小屋でした。
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ここを見て回ったころには
平和会館に着いて すでに3時間近くが経過
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ここまでくると

私も夫も 自然と無口でした。。。
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夫:You can never justify the war. But I'm glad I came.
  (戦争はぜったい正当化できない。でも、来てよかった)


最後に おとなりの観音堂で

若くして散った勇士たちのご冥福と
どうか世界中に平和がおとずれますようにと

私と夫と妹と 3人でお祈りして 
帰路についた。





青空のスーッとぬける 暑い暑い9月の知覧。

この澄んだ空を
何機もの戦闘機が飛び立っていった
そして散っていった

そんな時代があったのだ。

それも、そう遠くはない昔。


そうして今 私たちが
こうして平和に暮らせてゆける。

私は かつて「鬼畜米兵」と言われた民の子孫と結婚し
「敵国」と呼ばれた土地で 平穏に暮らしている。

平和のありがたさ
そして
運命の不思議を思いました。



遠くには ひときわ凛と美しい開聞岳が


ちょっとせつない 午後でした。
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Posted by レニア at 15:39│Comments(4)ふるさと

この記事へのコメント

三角兵舎では北枕で寝ていたんですよね。

現実を受け入れながら寝る事ができたのかと見に行った時は思いました。
Posted by area51 at 2011年10月17日 19:01
Area51さん、

納得して心から笑って逝ったやつなんか1人もいないと
TVドキュメンタリーで生き残りの方がおっしゃってました。
たぶんぐっすり眠れた人なんていなかったのではないでしょうか。。。暗い天井を見上げながら、おそらく心はそこになかったと思います。
Posted by レニアレニア at 2011年10月18日 01:48
本当に、
若く、夢も希望もこの先に多くあった彼等
命を賭してまでの守ろうとした世界は
今のこの世の中だったのだろうかと
申し訳ない気持ちになりました。

思い出すたび、自問自答を繰り返します
Posted by 龍神 at 2011年10月30日 17:44
龍神さん、

戦後の日本は、欧米の物質至上主義にのみこまれて
一番尊い「精神」の部分がおざなりになってしまったのは否めませんよね。
あー、このまま行くと日本の未来はどうなってしまうのだろうと嘆きに近い心情になっていたとき
あの震災が起こりました。

苦難の中で前進しようとする人の姿、支え合おう、助け合おう
手を差し伸べようとする多くの人の姿。
「ああ、日本人はまだここにいた」と、不謹慎な言い方ですが私は嬉しくも感じました。
祖父母の世代が命をかけて守ってくれた、その大和魂の崇高な精神は
今の若い世代の中にもちゃんと生きているような気がします。
それを引き出せるか否かは、
やはり大人の手腕にかかっているのでしょうね。とりあえず、日本の政治家さん、次世代の見本となるような言動をとってもらいたいものです。
Posted by レニアレニア at 2011年10月30日 19:28
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