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Posted by チェスト at

帰郷 2011 ... ラーメン

2011年10月30日

日本に帰るとなれば、もちろん 

これは ラーメン 外せません。




まずは 鹿児島に帰りつくまで待ちきれず
東京の品川駅まえで食べたラーメン。

「博多ラーメン」という看板で、なかなかのとんこつスープでした。


でもお昼どきだったため、周りは見事にサラリーマンだらけ。
なんだか とっても場違いなうちら...



そして鹿児島で


「ざぼんらーめん」

これこれ、食べ慣れた 鹿児島らーめんの味!
うぅ〜〜 うまい。たまらん。



そして、家族で出かけた「十八番らーめん」



姪っ子が頼んだ、塩ラーメン

こちらは 味噌ラーメン


夫が頼んだ、担々麺


完食。。。



私はやっぱり オーソドックスな「フツーのラーメン」が一番好きかな。



この日は かなり灰も降ってる暑い日で
汗をかきかき 食べました






そして

今回おじゃました、ちぇすとブログ友

「Area51さん」のお店



鹿児島では珍しい、あっさり魚介系スープ! 

夫はこちら ↓


私は つけ麺をいただきました。↓

と〜っても美味しかった!


うきうきハッピー♪
「左ぎっちょ」の夫

もちろん、ぺろり完食。。。


Area51さんは 大の野球ファンで
お店には色んな選手のユニフォームが、、、サイン入りで!


夫は Area51さんと
メジャーリーグ そして 日本のプロ野球の話で
エライ盛り上がっておりました。

Area51さん、こと野球に関しては
く、く、詳しい。。。
詳しすぎて
つ、通訳できない(笑)

お仕事中に お邪魔しましたー。
美味しいラーメン、ごちそうさま〜〜
また寄らせてくださいね〜〜



そして、明日はシアトルへ帰るぞ!という 
その前日
博多にいた私たち

まだ食べるか、ラーメン。。。


博多駅内にある 「博多一幸舎」


「ラーメン、まだかなあ。。。」

キッチンを興味深くながめながら、
辛抱づよくラーメンを待つ の図。 笑


かなりの「こってり」スープでした。
夫が頼んだラーメン


私は一応「あっさり」を注文したのだけど、それでもこんな感じ



これだけ食べて、うちのドラえもん

時間があったら 成田でもラーメン食べたい ラーメン

...と のたもうた。


あいにく
成田では ラーメン食べてる時間はありませんでした。。。(ラッキー えーっと・・・



もう しばらくラーメンはいいわ!

と思ってた私ですが

シアトルに戻って 一ヶ月ちょっと

既に、日本のラーメンが恋しい今日このごろです。







  

Posted by レニア at 17:06Comments(6)ふるさと

帰郷 2011 ... 母校

2011年10月23日

ドラえもん(夫)が

夫:君が通った高校を まだ見たことがない!

と言うので、

たぶん中には入れないと思うけどなあ〜と思いながら
一応連れて行きました。





この時点で 平日の午後3時ぐらい。
たぶんまだ授業中だったのではないかな。


「許可無く学校内への立ち入りを禁止します」

と、ありますね〜。

はい、やっぱり入れませんでした。。。


懐かしの母校は、中学部もできていて
なんだかとっても立派になってました。



教室とか、職員室とか

ちょっと覗いてみたい気持ちもありましたが。。。




高校時代は、私にとって ちょっと暗い時代でした。

当時の私はとにかく
自分の何もかもが嫌いでした。

今、思い返すと

ただの「甘ちゃん」だっただけなのですが 


まあ、思春期特有の思い込みと申しましょうか

その後の人生で体験したことと比較すると

高校時代の私はホント、ただの「甘ちゃん」以外の何者でもなかったのですが 


その頃は、せいぜい16年、17年しか生きておりませんでしたので
自分の ものすごーく狭い世界の中でしか物事を判断できず
その ものすごーく狭い世界の中で
自分勝手に 物事決めつけたり、悲観的になったり、嘆いたり。。。

まあ、

「来月のお家賃をどうやって払っていこう」 とか
「明日から、どうやって生きていこう」 とか

そういうことを心配せずにすんでいたため

それ以外の余計なことに 思いを巡らすほど時間に恵まれていた。。。

つまりは、

暇だった

ということですな



そんな
しょーもない私でも

高校時代は 素晴らしい友に恵まれました


そのひとりが ここ「ちぇすと」のブログでも親しくさせてもらってる

樹さん  

でございます。


樹さんとは 高2、高3と
2年間にわたってクラスメートでした。

小さいお顔にサラサラのボブヘア
くりくりお目めがいつもキラキラキラキラキラキラしてて
樹ちゃんは本当に可愛くて
しかも その優しくて気さくな性格でいつも皆の人気者
となりの「男クラ(男子クラス)」の男の子とも 気楽に話してるし

私はいつも遠目に 「いいなあ〜〜〜」と 羨ましく思ったものです。


その 樹ちゃん

高校時代は「いつもベッタリ!」というわけでもなかったのですが

ありがたいことに 年を重ねるごとに 
より深いお友達になれている気がします。




今回も 一緒に高校の恩師を訪ねたのでした。



まん中にいるメガネをかけた女性が
2年間にわたって うちらの担任だった先生。

今回 お宅にお邪魔したら 当時の写真がいっぱい詰まったアルバムを
見せてくれました。



アルバム2冊分に 私たちのクラスの

体育祭
文化祭
卒業式

その他の写真がいっぱいいっぱい 詰まっていて

それを見ながら 樹ちゃんがポツリ...

「私たちって こんなに愛されてたんだねえ...」

本当に そのとおり
しみじみ2人 顔を見合わせました。


これも 若さ故の無知ですよね。

若いときは

自分たちが どれだけ周りの人たちに思われ
どれだけ周りの人たちによって日々生かされているのか
それが全く認識できず
あたかも自分1人の力で生きているような錯覚さえ覚えることがあります。


それが分かっただけでも
年を取るのはいいものだなと 思います。


それにしても、卒業して20年以上経った今も
こうして高校時代の恩師、友人とつながっていることを 夫は

すごい

と言います。


私の恩師も 当時は「学校でのお母さん」みたいな存在だったけど
(ちなみにこの先生は 私の母と同い年)

教師にそういうイメージを持つというのも
日本特有のものなのかもしれませんね。


  
タグ :玉龍高校

Posted by レニア at 17:18Comments(4)ふるさと

あれから 半年

2011年10月21日

水曜の夜

「Kizuna - 絆」 

というチャリティーコンサートに行ってきました。


日本生まれ、シアトル育ちのシンガー
Emi Meyer エミ・マイヤー

3.11の大震災から半年が過ぎ
アメリカのニュースでは日本のことは全くと言っていいほど
聞かれなくなりました。

復興には まだまだ時間がかかるし
これから寒くなるにつれ、
被災した人たちは 元の生活にもどれないまま
厳しい冬を越えなければならない方が きっとほとんどでしょう。


今この瞬間
どんな思いがその人たちの心をよぎっているでしょう。




こうして遠く異国にいても

何か、何か小さい事でもいいから
自分にできることをしたい 

そう思う人は多くて





そんな思いを すばらしい企画力で
実際に形にしてしまったのが
こちらの団体 ↓
Seattleites Help Japan!








震災後から ここシアトルで



日本をサポートするための
募金を募る







さまざまなイベントを
行ってきた団体です。









昨夜の エミ・マイヤーのコンサートも
この団体によって企画されました。





場所は シアトルど真ん中にある高層ビル
コロンビア・タワー の76階にあるラウンジ




高級会員クラブのラウンジで
普段はうちらのような庶民は入れない場所です。





会場ではささやかながら募金を兼ねて
私たちもTシャツを買わせていただきました。






エミ・マイヤーさんは 
お父さんがアメリカ人、お母さんが高知出身の日本人で
完全なバイリンガル
歌も 英語と日本語と 両方やってくれました。


彼女はピアノとボーカル

そして日本からベースが1人とドラムが1人

3人だけのシンプルなバンドでしたが 
その手作り感がとても温かくて
エミさんのボーカルは 生で聴くとノラ・ジョーンズを彷彿させるような
深みがありました。



そして コロンビアタワーからの絶景の夜景に負けないくらい
それはそれは美しい女性でした。



今なら 彼女のウェブサイトにいくと

Yesterday's Rain

という歌が 無料でダウンロードできますよ。
http://emimeyer.com/index.html  
(サイトに行ったら画面右手にある茶色の「まる」をクリック)


昨日の雨が今日の木々を育てる
  = 昨日の悲しみが今日の私を強くする


という思いをこめて作ったとご本人は言ってました。

語りかけるような優しい歌声です。








震災から半年

被災地が本当に元の生活を取り戻すまで
あと どのぐらいかかるのでしょう。。。



災害なんて 誰にも予知できない。


ここシアトルだって、実は M9.0並みの地震が起きても
おかしくない地域と言われています。

もしもそれが本当に起きるとしたら
それを止める術は、ただの人間である私たちにはありません。


でも 大きな悲しみが襲いかかってきたとき
私たち人間には 
寄り添う心があります。

差しのべたいと思う手があります。


それが 私たちの最大の武器かも。



いまこの瞬間に 
不安を抱えながら生きている多くの人たちへ 思いを寄せて

こうして無事に一日を終えられた
温かいベッドで眠れる今日の暮らしに 
感謝して。。。






  

Posted by レニア at 15:19Comments(0)

帰郷 2011... 知覧

2011年10月17日

今回の帰国の目玉でした。


知覧「特攻平和会館」



妹が仕事を休んで、つき合ってくれました。
(自分で運転して行ったら、おそらく迷子になってただろう)


我が子を特攻隊員として送った、母の像。
この像の前に立っただけで、祈念館に入るまえから涙が出てきました。



館内に入ると、まずこの絵が目に入りました。

(館内はカメラ撮影禁止だったので、これはサイトから拝借したもの)


撃沈する戦闘機から、特攻隊員を抱き上げて昇天させる天女の絵
夫とふたり、しばらく立ち止まって見入りました。



平和会館に到着するまでは

見た目「アメリカ人バレバレ」の夫を連れていって 大丈夫だろうかと
一抹の不安もあったけれど
http://hanayu0413.chesuto.jp/e649853.html

奇異の目でみる人など、1人もおらず (ホッ...)


あいにく、この日は彼以外に外国からのお客さんは見かけなかったけれど
海外からの参館者も多いようで

ちゃんと英語での案内器(イヤホン付き)も 
貸し出してくれました

夫は
壁一面に並んだ 特攻隊員のお顔を見上げながら
その人たちにまつわるストーリーを
熱心に英語で聞いていました。

その横顔を見ながら

何を考えているのだろう。大丈夫かなと

ちょっと心配になったりして。


「大丈夫?」と聞いてみたら

一言ぽつり

夫:They are all so young...


ホントに
まだ あどけなさの残る特攻隊員のお顔も
いくつもいくつもあった。



この日は修学旅行の団体さんも多く、
その度に館の方が 生徒たちに向けて詳しく説明してらっしゃるのを
便乗して一緒に聞けるという ラッキーなことも。




そして展示された 直筆の遺書のかずかず
その中には
必ずといっていいほど 家族への「感謝のことば」が。。。

夫に「これはなんて書いてあるの?」と訳を聞かれても
達筆すぎて読めないお手紙も(汗)

死の間際に
こんなに美しい文字で
こんなにしっかりとした文面で

感謝の言葉を綴れる若者が 
この現代にどのぐらいいるだろうか。

私だって18〜19歳のときに こんな手紙は到底書けなかった。。。
自分がこの年になって改めて
その魂のこもった文字に 畏敬の念を抱かざるを得ない気持ちでした。


「お父さん、お母さん、今まで育ててくれてありがとうございました」

「恩返しもできず逝く親不孝を、お許しください」

「○○ちゃん(妹さんの名前)、お母さんのいいつけをよくきいて...」

「兄はお星様になって いつもお空から見守っています」




そうした文面を 夫のとなりで訳しながら

私:みんなただ 大事な人を守るために戦ったんだよね。
  日本人もアメリカ人も それは同じだったよね。


と思わず言葉が出た。

夫:Of course





館の外にでてから 隊員が最期の数日間を過ごしたという
「三角兵舎」へ




ビックリするほど小さく
質素な小屋でした。


ここを見て回ったころには
平和会館に着いて すでに3時間近くが経過


ここまでくると

私も夫も 自然と無口でした。。。



夫:You can never justify the war. But I'm glad I came.
  (戦争はぜったい正当化できない。でも、来てよかった)


最後に おとなりの観音堂で

若くして散った勇士たちのご冥福と
どうか世界中に平和がおとずれますようにと

私と夫と妹と 3人でお祈りして 
帰路についた。





青空のスーッとぬける 暑い暑い9月の知覧。

この澄んだ空を
何機もの戦闘機が飛び立っていった
そして散っていった

そんな時代があったのだ。

それも、そう遠くはない昔。


そうして今 私たちが
こうして平和に暮らせてゆける。

私は かつて「鬼畜米兵」と言われた民の子孫と結婚し
「敵国」と呼ばれた土地で 平穏に暮らしている。

平和のありがたさ
そして
運命の不思議を思いました。



遠くには ひときわ凛と美しい開聞岳が


ちょっとせつない 午後でした。






 
  

Posted by レニア at 15:39Comments(4)ふるさと

変化の秋

2011年10月10日

日本から戻って新学期が始まり、3週間。
ようやく体調が本調子に戻りつつあるこのごろ。

これ↓ビールを美味しく感じるようになったので、もう大丈夫でしょう。



今回は長引いた〜、自分でビックリ。

仕事に行けないほどではないのだけど、とにかく咳がとまらず
ドクターに出してもらった咳止めシロップが手放せない日々。。。


声は商売道具でもあるので、途中まったく声がでなくなった時には
授業するのにも四苦八苦だった。


なんだか滑り出しイマイチな この秋ですが、、、もみじ

ちらほらと小さな変化が、、、



まずマイケルが変わった。

自分の部屋の片付けもしなかったような子が

例えば、私が料理に使ったお鍋を流しに置いていたら
それを気がつくと洗ってくれていたり ビックリ

炊飯器に残っていたごはんを、頼んでもいないのにちゃんと専用ケースに入れて
冷凍してくれていたり ビックリ

キキ(ネコ)のおトイレを掃除するのは、もっぱら私か相方だったのだけど
(マイケルは「臭い〜!」と言って近寄らなかった)

それを最近では 自分からしてくれていたり。。。 ビックリビックリ

14歳 → 19歳 の
彼の変化を見てきたけれど。。。

大人になってきたってことなのかな?



そして、夫の職場でも変化あり。

ちょっとしたプロモーションがあり、彼の配属が変わり
今まで夜中まえに出勤していた人が
午前3時ごろまで
日によっては朝の6時まで出勤しなくてもよくなったのだ。

結果

彼がまだベッドで寝ている間に、私もベッドに入るという
つまり数時間は同じベッドで寝ているという(世の夫婦にとっては当たり前なんでしょうが)

結婚してこのかた、私たち夫婦には 平日にはありえなかったことで
な〜んか、それが

ヘンな感じ - - - - - しずく

といっても、彼が起きて出勤する頃には 私は爆睡で
なんの記憶もありゃしませんの ですが。。。



そして、私の仕事上でも ちょっと変化あり


ありがたいことに、また別の大学からお声がかかり
明日、その大学の下見に行ってきます。

このポジション引き受けたら
「また自殺行為?」とビクビクする気持ちもありなん

でも、最近

「泣こかい、飛ぼかい、泣くよか ひっ飛べ!」

の 薩摩おごじょ魂が なんとなくくすぶっている。

こうやって自分のところにやってきてくれるお話も「ご縁」だから
最初から「できない!ムリ!」じゃなくてね。

なんで私のところに来てくれたのかな〜って
ちょっと探ってみたい気持ちもあったりするのです。



そんなこんなで、今回の帰郷の報告を
なかなかアップできずにいますが、、、

すっかり秋めいてきたシアトルの空を見上げて

「青」の眩しかった 鹿児島の空を思い出します。



夫:きれいだね〜〜

(入来峠にて)



夫:この 盛んに鳴いてるの、、、cicada(セミ)??
(シアトルには蝉がおりません。涼しすぎるのかな?)




母に借りて私が運転していた車

灰だらけでございました。



日本で運転すると
いつも「方向指示器」と「ワイパー」を間違える。。。

そして、それにようやく慣れて アメリカに戻ると

やっぱり「方向指示器」と「ワイパー」を間違える。。。困ったな


そんな、なんちゃってドライバーなのに
日本ではキラキラ「優良運転手」キラキラですの (1年に1週間ぐらいしか運転しないもので)


鹿児島でのおはなし
シェアしたいこと、まだまだいっぱいあるのですが
ぼちぼちいきますので、気長にお待ち下さいませ。。。

さぁ〜て、今週もがんばるぞー グッド


  
Posted by レニア at 15:56Comments(4)ふるさと