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Posted by チェスト at

ラーメンガール

2011年02月26日

とことんラーメンに魅せられた、うちの旦那さん。

今度日本に行ったら、毎日ラーメン食べます!

とまで言っている。

その彼、どこで見つけたのか先日こんな映画を買ってきた。。。

The Ramen Girl  「ラーメンガール」


一緒に見よう!!

とワクワクハートモードの相方。

私は正直言って、日本を題材にしたアメリカ映画があまり好きではない。
The Memories of a Geisha (さゆり)」にしても
The Last Samurai (ラスト・サムライ)」にしても
いわゆるアメリカ人から見た日本のイメージで、コリコリだったから。

この映画も、このジャケット、、、
ヒザ丈の赤い着物に、手を合わせる、女の子の写真って。。。どうよ?

見るからに

ん〜〜〜。。。

と唸ってしまった。


この主演女優、ブリットニー・マーフィは決して嫌いな女優ではない。
が。。。
イマイチ「見たい見たい!」モードになれなかった私。


私:他には誰が出てるの?

と聞いたら

夫:んーとね、Toshiyuki... Nishida... だって

私:えっ、西田敏行が出てんの??


ジャケットの裏面を見ると余貴美子も出ているとある。
西田敏行さんも余貴美子さんも、大好きな俳優さんだ。それだけで見る気になった私。

あらすじは:

恋人を追いかけてはるばるアメリカから日本にやってきたのに、その彼にフラレて日本でひとりぼっちになってしまった主人公の女の子、アビー。

傷ついた心で入ったラーメン店で、そのラーメンの味に癒され感動し、
その店の店主(西田敏行)に弟子入りを申し出る。
言葉も通じない師匠と弟子。
すったもんだを経験しながら、アビーは、ラーメンは頭ではなく心で作るものだということを学んでゆく。



というもの。


さて、実際に見てみた感想は...

アメリカ人の日本人に対するバイアス(先入観)は多少入ってますが
この手の映画にしては
想像以上に、よかったです。

夫も見終わったあと、しみじみ

そうか。。。ラーメンって「Soul Food」なんだなあ〜

とつぶやき、ますますラーメンを愛してしまったご様子。


この映画の脚本家は、日本のラーメン映画「タンポポ」(85年)の大ファンだそうで
それがこの映画を書くきっかけになったのだとか。

夫はその「タンポポ」も

絶対見る!!

と、はりきっている。(手に入らないと思うけどなあ〜)



さて、この「ラーメンガール」
日本でもDVDがリリースされてる様子。もし興味があったらご覧ください。
http://wwws.warnerbros.co.jp/ramengirl/about.html

ちなみにこの主演女優、ブリットニー・マーフィは


2009年の冬に心不全で突然、死去してしまいました。。。
この「ラーメンガール」は2008年の映画なので、ブリットニーが死去するまえに最後のほうで出演した作品のうちの一つとなっています。


それにしてもラーメンって、その土地ならではの顔がありますよね。

この映画で登場するのは東京のラーメンなので、
「なると」とか「ほうれん草」などがトッピングとして入っている。

その昔、父が話してくれたっけ。

若かりし頃、上京して初めて東京のラーメン店に入ったとき
スープが黒くて(しょうゆラーメン)
しかも、「なると」や「ほうれん草」や、はたまた「ゆでたまご」までが入っているのを見て
そりゃ〜〜、ビックリたまげたビックリ そうです。

ちなみにラーメン屋さんに入って、あたりまえに「大根の漬け物」が出てくるのは
たぶん鹿児島だけじゃないかなあ。。。(他の土地で見たことないような)

他県にお住まい(またはご出身)の皆さん、どうでしょう?



今回帰国した時は、とにかく祖母のことで頭がいっぱいで
鹿児島のおいしいラーメンを食べることもなく、シアトルに戻ってしまった私。。。

この映画を見て、ひさびさに体の芯までジーン...と染み入る
熱いハートのこもったスープの
ホンマもんのラーメンが食べたいなあ〜と
思いました。

  

Posted by レニア at 18:48Comments(12)

待ったなし

2011年02月23日

自分がどんな状態であっても
こと、子どもに関しては「待ったなし」

マイケルのことで、ちょっと複雑な案件浮上。。。
(彼のプライバシーのため、詳細割愛させていただきますが)

夫が午後、マイケルと二人のときに話をしてみたそうだが
ほとんど聞く耳持たずだったとのこと。

夜、仕事から戻ってそのことを聞いた私。
3人でディナーを囲んでいる時には敢えてその事に触れず
夫の就寝後、マイケルと二人になったときに話をしてみた。


普段、父親(夫)にはそういう面を全く見せないし話さないが、
マイケルは 過去に起きた様々な出来事によって、深く傷ついていた。
その痛みが、今夜彼との話を通じて、ひしひしと感じられた。

マイケルは、話しながら
途中で何度も涙を浮かべた。


その全てが、私の知らないずっと前に起きたことであり
私には、彼がそれをうまく咀嚼できるよう噛み砕いて解釈してあげることも、助言をしてあげることもできない。



ただ、傷つくのは、人として自然なことだということ。

人間、生きていれば誰でも傷つくときがあるということ。
そして、傷ついた経験を持つ人は、人の痛みも分かってあげられるから
それは決してムダなことではないということ。
そして、己が傷ついた過去を、自分のこれからの未来を投げ出す excuse(言い訳)には
決してしてはいけないこと。

全て、私自身が今まで生きてきて、イタイ思いをいっぱいして
やっと学習したことだ。

それらを、マイケルに話した。

18歳という若い心に、その言葉がどのくらい届いたかは定かではない。


気づくと、私たちのお話し合いは2時間にも及んでいた。。。


もうそろそろ2月も終わりだというのに
今日のシアトルは雪が降りましたよ。

春は、まだまだ遠いのかな。


夫と接していても時々感じるが、今夜マイケルと話していても痛感した。
男の人って、実は、ものすごく
繊細だ。

私は自分に妹しかおらず、同世代の男の人を身近に育っていないので、そのへんが上手く理解してあげられていないのかもしれない。


私の人生は、もう折り返し地点を過ぎたけれど
マイケル、あんたの人生は、本当にこれからだよ。

まだ、何も始まっていないよ。
これからだよ。
なんだって出来るよ。

どうか、自分に誇りをもって
突き進んでいってほしい。
  

Posted by レニア at 20:38Comments(4)

朝がまた来る

2011年02月20日

朝、ベッドでふと目を覚まして
ドリカムの「朝がまた来る」
頭の中で流れた。

雨だって晴れだって
願いは、とどかない
あなたのいない朝は来るから

壊れて泣いたって
願いは、とどかない
あなたのいない、朝が今日も明けるから。。。



長く聞いてないなあ、この曲。最後に聞いたのはいつだっけ?
ああ、そうだ。大切な人に突然去られた、あの時以来。。。
あの頃はこのドリカムの曲を何度も何度も聞いたよなあ。
あれから何年経ったんだっけ??

そんなことをボーッと考えながら、ふととなりをみると
相方が口を半開きで、平和そのものの顔でグーグー寝ていた。

前にも話したと思うが相方は普段夜中から午前中にかけて働く人なので、こうして自分が目覚めたときに彼がとなりにいることはあまりない。
普段私が目覚めた時にとなりにいるのは、だいたいネコだ。
だがこの3日間、彼は私を心配して休みを取ってくれていた。
身内に不幸があった場合、自分のために、または家族を支えるために、そうした有給休暇がきちんと会社で保証されているとのこと。ボスに「妻が日本の祖母を亡くして今こういう状態なので」と説明したら、休みが3日間も、難なくおりたという。
こういうとこ、アメリカだなあ〜と思う。

正直いって、とってもとってもありがたかった。


いっぽう木曜から仕事に復帰した私。
同僚の先生も学生も1週間以上仕事を休んだ私に文句一つ言わず、みんなとてもsupportiveだった。
1コマ目のクラスの初めには、休講にした理由を説明しなければならなかったとき不覚にも泣きそうになったが、グッとこらえて飲み込んだ。飲みこんで、そこからは少しずついつものペースに戻れた。いつも通り、なるべく笑って授業をした。
いったん波に乗ってしまうと2時間の授業が比較的スルスルと流れた。

それでも学生の中には、クラス後わざわざ私のところまできて

「Sensei, I am so sorry for your loss...」

といって、ハグをしてくれる子さえいた。

このブログを読んで、温かいメッセージを残してくれた皆さんをはじめ
自分が弱っている時には
人の優しさが、本当にしみじみと、胸にしみます。



雨なら傘持って、晴れたら上着ぬいで
皆そうして生きてゆくのに

雨に打たれたい
晴れたら焼かれたい Oh〜♪


起きて、しばらく経っても
相変わらずドリカムが頭の中で流れていた。

この週末、デスクの上には信じられないくらいの量の仕事が山積み。。。
でもいまいち集中力が戻ってこない私。
ふと窓の外を覗くと、今日のシアトルは見事な快晴だった。
午後になって、仕事の合間にしばらくリビングの窓から
ポ〜〜っと美しい青空を眺めていた。
...ら
いつの間に、キキ(ネコ)もそこにいた。

ここ数日、やたらと私の周りをついてまわるキキ。



マイケルは、私が一週間以上も家にいなかったから、キキは私がまたどこかへ行ってしまうのではないかと心配で見張っているのだと言う。


夫は、私の様子がいつもと違うから、キキはそれを感じ取って心配しているのだよと言う。



シアトルに戻ってから今日初めて、ラナイ(バルコニー)に足を踏みいれてみた。
夫が昨年の夏に組み立ててくれたこのバルコニーチェア。冬の間は全く使わなかった。
11月の大雪の時には半分雪に埋もれていたが、その割にはダメージも受けず、何事もなかったかのようにそこに鎮座していた。


バルコニーのすぐ外に立つ木は、いつのまにか芽吹いていた。
この木は、春になると、白い花をつける。
その準備を、今一生懸命しているのだなあ。

まだまだ空気はひんやり、冷たいけれど
春は、もうすぐそこまで、来ているんだなあ。。。



祖母の葬儀は、日本時間で金曜日のお昼ごろに行われた。
もちろんお葬式のために日本に帰ることは、もう出来なかった。
川内で葬儀が行われている、ちょうどその頃、私は授業の真っ最中だった。

皮肉なことに、今課のテーマは「家族」。

日本語では、自分の家族と他人の家族と、その名称が異なる。
「父」と「お父さん」
「母」と「お母さん」
「兄」と「お兄さん」
「祖母」と「おばあさん」...

そんなことをクラスで教えている最中だった。


バルコニーでしばらく、祖母のこと、そして来週の授業をどう詰めてゆこうか等、色んなことをグルグルと考えていた。
そのうちブルブルっと、ちょっと冷えてきたのでリビングのドアから部屋の中に入る。
...と
夫がちょうど、今夜BBQにするチキンの下ごしらえを、キッチンでしてくれているところだった。

私はその後ろ姿を
しばらく黙って、ながめていた。

そんな私に気づかず、彼もしばらくはチキンに集中。


柔らかい午後の日差しが差し込むキッチンで
ふと祖母が
「よかったねえ」と笑っている気がした。

写真を一枚「パシャリ」と撮ったら、その音で私に気づき
夫が振り向いた。

「I'm going to the grocery store after this. Do you need anything?」
(だからキャップをかぶっていたらしい)



「アスパラガス、おねがいします」

と日本語で言ったら

夫は、ちょっと考えて
そしてニカッと笑って

「はい」

と日本語で、言った。
  

Posted by レニア at 17:40Comments(0)

She is now...

2011年02月15日

She is now in the better place.
Free from all the pains and sufferings.
And now, she is with your grandpa...
I know exactly what you are going through right now.
I love you, and I am always here for you. Please hang in there...


夫はそう言って私を固く抱きしめて、仕事に行った。1時間ほど前だ。


アメリカは今日がバレンタインデー。

故郷に一週間滞在し、私は今朝10時にシアトルへ戻った。
仕事から直行で空港に迎えにきてくれた夫は、まだユニフォームを着たまま
手にはバラの花束を抱えていた。
久しぶりに相方の顔を見てホッとしたのか、私は空港で彼を見つけた時
ちょっと涙が出た。


その12時間後に、祖母が亡くなったと
母から連絡が入った。。。


鹿児島に滞在した7日間のあいだ、ほとんど毎日川内の祖母の病院まで足を運んだ。
到着して駆けつけた日には、

「おばあちゃん、ただいま。」

と話しかけたら、祖母はうっすらと目を開けて
一筋の涙を流した。
ほとんど意識のない状態だったが、私が帰ってきたことが絶対分かったのだと叔母たちは言った。

でもそうやって僅かながらも反応を見せてくれたのはその日だけで、その後はずっと目も開けてくれず。。。
様々な機械につながれて、見ているのも痛々しいような状態だった。
昏睡状態になる前、まだ少しは言葉もしゃべれた時
ある日祖母が

「さっき、Y子ちゃん(私)が来たよ...」と

突然言ったことがあったそうだ。

その話を叔母たちから聞いた時は
涙が止まらなかった。


鹿児島中央駅から新幹線に乗り、何度も何度も川内川沿いにある祖母のいる病院へ通った。
行きつ戻りつしながらも頑張っている祖母を見て、できることならまだまだ側にいたかった。
でも仕事をこれ以上休むわけにはいかず、やむなく今朝シアトルへ戻った。

相方の優しさに癒されてホッとしたのもつかの間
祖母がとうとう逝ってしまったという辛い現実を
今夜、突きつけられることに。


夫が言ってくれたように
祖母はようやく全ての苦しみから解放されて、今ごろは祖父との再会を喜んでいることだろう。
そうであってほしいと
願って止まない。

永田ミネ、92歳
5人の子供と、12人の孫を
いつもいっぱいの愛情で支え、教え、いたわり
たくさんの思い出を残して逝った、一人の誇り高き薩摩おごじょ。

私にとってはとりわけ
特別に、大切な女性だった。

これを書いている今も、涙があとからあとから流れてくる。


明日、学生の前で果たして笑って授業ができるか、、、
かなり不安だ。



病院に泊まりこんだ翌日の朝、川内川の堤防を少しだけ散歩した時に撮った一枚。
中2まで過ごしたこの町。
懐かしい風景に心を慰められ、辛い現実から逃れられたひと時だった。

  
Posted by レニア at 19:08Comments(12)

鹿児島に、帰る

2011年02月06日

ことにした。

明日の正午に飛びます。

ここ数日祖母のことが頭から離れず、
ダメもとでWorld Language Departmentのボス(ドイツ語の先生)に打診してみたら...

Family emergencies like that deserve priority.
Go see your grandmother as soon as you can arrange a flight!


という、まさかのお返事。
普段はちょっと強面の彼女なのだが、学期のどまん中であるにも関わらず気持ちよく休講を許可してくれた。
その返答に、驚くやらジンとくるやら。。。
感謝感激でした。

それでも長く授業を休むと、自分にも学生にもあとでしわ寄せがくる。一週間が限度だろう。
同僚の日本語の先生たちにも事情を話してみたところ、一週間のうち2コマは二人の先生が代講してくださることに。
本当にありがたい。

ドイツ人のボスにしろ、日本語の同僚先生方にしろ、
みんな祖国を遠く離れてここアメリカで教える者同士。
こうした家族の緊急時に駆けつけられないもどかしさは、もしかしたら一番わかってくれる人たちなのかもしれない。

帰宅して早速、夫にもその旨伝える。

That's great! Go home and see your grandma, Honey.
She must be anxious to see you!


ありがとう。

相方の承諾を確認してから、動き始めた。

まさかこんな展開になるとは思っていなかったので
「帰るぞ!」と決まった昨日から、あわててチケットを抑えたり、休講中の準備をしたり
バタバタと走り回っていた。
休みの間に学生にさせておくワークシート、パワポ教材なども先ほど仕上げて
「クラスサイト」(私のクラスに登録した学生たちが各自アクセスして、教材等を自分でプリントする共有ウェブサイト)にやっとアップロードし終えたところ。

日本にいてもインターネットさえあれば、このクラスサイトにはいつでもアクセスできるし
そこで学生ともメッセージのやり取りができる。
本当に便利な世の中になったものだ。



祖母は相変わらず昏睡状態だそうだ。
母は昨夜病院に泊まったそうだが、夕方一度だけ祖母がフッと目を開けたらしい。
あとは、話しかけてもほっぺをピタピタ叩いても
なんの反応もないそうだ。

祖母は今、動かない体をベッドに横たえながら心で何を思っているのだろう。
自分の体に起きていることを、自覚しているのだろうか。
それとも
十代の娘だった頃の、楽しい夢など見ているのだろうか...。

できれば後者であってほしい。

今夜、ディナーを食べながらそんな話を夫としていて
そういえば、祖母が若い母親であった頃(私の母を産んだころ)の話などは聞いたことがあるが
彼女が結婚する前、まだ若い娘さんであった時代の話は
聞いたことがなかったな...と気づいた。

70年以上も前の日本で、若かりし日の祖母は
いったいどんな事を考えていたのか、どんな未来を夢見ていたのか
また、祖母の母はどんな人であったのか...

もっと、彼女の歴史を聞いておけばよかった。

もう話もできない。


こちらを飛ぶのは日曜だが、日本(成田)に着くころにはすでに月曜の夕方になっている。
そこから羽田に移動して、何とか鹿児島行きの最終便に乗りたい。
間に合うだろうか。

ふと引き出しの奥からゴソゴソ日本円をひっぱりだしてみた。
あれれ、、、手元には現金は5万円ちょっとしかないよ。
ネットで調べてみたら、羽田ー鹿児島の片道は¥39,000とある。
万が一、私の(アメリカの)クレジットカードが使えなくても、
何とかなるかな。
何とかなるよな。だって日本だもの。
勝手知ったる、自分の国だもの。

とにかく日にちに余裕がないので、日本では一日たりともムダにしたくない。
何とか明日、鹿児島行きの最終便に乗れますように。。。
祖父にもお願いしておこう。
おばあちゃん、急いで帰るから待っていてほしい。

Wish me luck!  
Posted by レニア at 17:44Comments(6)

逝かないで

2011年02月05日

今日はまったく、シンドイ一日だった。

というのも
昨夜、鹿児島の母から
祖母の容態が急変したという知らせを受けたからだ。

祖母は、母の母で、川内市に暮らす。御年、92歳。
大好きな大好きな女性だ。
私の大切な母を産んでくれた人だ。
それだけで、とてもとても特別な女性だ。

彼女の夫、つまり私の祖父は15年前に他界したが
それこそ誇り高き薩摩男児という感じの、器の大きい人だった。
愛情豊かな、優しい男性だった。

戦後の何もない時に、川内市で小さな葬儀社を立ち上げ
貧しくて支払いのできない人達に対しても、お代を取らず、トンテンカンテン棺桶を作って
リヤカーに乗せて色んなお宅をお世話して回ったそうだ。
そういう祖父の積んだ徳のお陰で、その後その葬儀社は大きな会社に成長した。
今ではその会社も、私の従妹の代に移っている。
なので、私が物心ついた頃の祖父母はすでにかなり裕福だったが、
お金に物言わせて贅沢するというところが全くなく
ただ孫に対して優しいじーちゃん、ばーちゃんだった。

その祖父が亡くなった96年、私はハワイで大学院生をしており
最期の時に立ち会うことはできなかった。

「さっき、おじいちゃん逝ったよ...」と母から連絡をもらった日のことは
今でも鮮明に覚えている。


今回、祖母の容態が悪化したという知らせを受けたとき
15年前のあのときの気持ちが、フッと蘇った。

すぐにでも、飛んで会いにいきたい。


こういう時、異国に住んでいるという現実を思い知らされる。
ちょっと電車に乗って、新幹線に乗って、飛行機に乗って
すぐ帰るから!!
というわけにはいかない、、、この距離。


そういう気持ちを抱えてこなす仕事は、とりわけシンドイ。

外国語の教師というのは「役者」みたいなものだ。
他の教科のように、教壇に立って直立不動。ただ淡々と理論を説いていればよいというわけにはいかない。
その言語(私の場合、日本語)を、ある意味体をはって、再現しなければならないからだ。

普段は2時間の授業のあいだに、あっちに走り、こっちで飛び
常に大きなはっきりとした発声で日本語を話し、その音を聞かせ、時には歌い(ホントに)
とにかく体力勝負なのです。

ちなみに今日は、学生の前でお風呂に入るまねをして見せた。
英語では「take a bath」というのに、なぜ日本語ではお風呂に「入る(enter)」というのかを説明するのに
日本のお風呂の入り方を一から教えてあげないと、説明不可能だったからだ。

私が服を脱ぐ動作をして風呂場に「入り」
そこから浴槽に「入る」まねをして、湯船につかり
「い〜ち、にぃ〜、さ〜ん、しぃ〜...」と数を数え始めると、ドッと笑う学生たち。
(実際のエピソードです。幼い頃は一緒にお風呂に入ってくれた母に「ちゃんと肩まで浸かって、20数えなさい」とよく言われたものだ)

そうして自分も一緒に笑いながら、
今日はふと、祖母のことが頭をよぎった。
胸がキュルルと泣いた。



アメリカの大学では、学期の終わりに学生による教師の「評価」が義務づけられている。

簡単に言うと

この先生の教え方は、どうでしたか?

の問いに対する学生からの率直な意見が、毎学期学校側に報告させるというわけだ。
その評価表は、学期が終了してしばらくしてから
教師自身の手元にも送られてくる。

過去にさまざまな学生からのコメントを読んでいて
ひとつ、とても印象に残っているものがある。

それは

Sensei, Thank you for always smiling.
It does make a huge difference in the classroom.


というもの。

日本人が英語で話すとき緊張するのと同じように
アメリカ人にとっても外国語(日本語)で話すということは
とても神経をすり減らすことなのだ。
きっと私の学生も緊張しながら
特に学期のはじめはドキドキしながら、教室に座っているに違いない。
そうだよな...だから楽しい気持ちで座っていられる教室づくりが何より大切だと
この学生からのコメントを読んだとき、改めて気がついた。

それ以来、授業をするときは
何はともあれ、とにかく「笑顔」
とにかくスマイル。
とにかく笑っていること。
それだけは常に常に心がけて、教えてきた。

なので、今日もずっと笑っていた。

いつもは自然と楽しいはずの、そんな授業の風景。
でも今日は、がんばってがんばって笑った。
そうやってケタケタ学生と笑っているのが
とてもつらい日だった。

一日の授業を全て終え、最後の学生が「失礼しま〜す」と教室を出て行ったときには
外はもう真っ暗だった。
シンと静まり返ったキャンパスを駐車場に向かって歩きながら
今ごろ祖母はどうしているだろうと思った。


「逝かないで」と言うのは
生きている側の、エゴかもしれない。

祖母はもう、ラクになりたいかもしれない。
あちら側へゆけば、祖父にも会えるのだ。

祖母はすでに長い長い時間を生きて、
ずっと家族のために働いて
もう存分に、私たちに愛情を注いでくれた。

「逝かないで」と思うのは
残される私たちが、悲しくて、辛いから。。。

祖母が本当はどうしたいか、
きっとそれは祖父が知っているだろう。

できることなら、もう一度だけ、会いたいよ。
でももう、がんばらなくていいからね。

遠く太平洋の向こう側にいる、一人の聡明な薩摩おごじょのことを思って
家路についた夜だった。


  
Posted by レニア at 00:06Comments(4)

おへそのつながり

2011年02月01日

親と子を「親子」にするのって
共に過ごした時間だろうか。
それとも、
血のつながりだろうか。

ご存知のとおりうちには息子(マイケル)がいるが、彼は私の実子ではない。
夫と前妻の間の子供だ。

マイケルが産まれたとき、夫は21歳、奥さんはまだ20歳。

まだまだ遊びたい盛りのお嬢さんだったのだろう。前の奥さんは「母親」になりきることができず、夫にもマイケルにもとても深い傷を残していった。

夫は子供のためにどうしても離婚だけは避けたかったそうだ。
マイケルを片親にするのが嫌で、なんとか結婚の修復に努めようとした。

...が

彼女の様々な仕打ちに辛抱強い夫もとうとう絶えきれず、最終的にマイケルを抱っこして家を出たのは彼のほうだったそうだ。
当時マイケルは4歳。
離婚の際も彼女は、マイケルを引き取りたいとも何とも言わなかった。

その後彼女の夜遊びはますますエスカレートし、とうとうドラッグで身を滅ぼしてしまったとのこと。
今では全くの音信不通。。。どこにいるのか、将又生きているのかさえ分からないと夫は言う。
なので私はその人には、お会いしたこともない。

離婚後、夫はシングルファーザーとして一人でマイケルを育てた。
以前のブログに書いたとおり、彼自身のお母さんは彼が18歳の時にすでに他界。。。マイケルが4歳になるころには、夫のお父さんは他の方と再婚されていた。

なので夫は親からのサポートは全くなしで、文字通り「たった一人で」働きながらマイケルを育ててきた。並大抵の苦労ではなかったと思うが、彼自身は
「大変だったんだ」
とか
「すごく苦労したんだ」とかは、
あまり言わない。

マイケルが生まれた日は、ものすごく幸せだった

と言う。

ぽよよん「ドラえもん」の夫だが、彼のこういうところが
私は心底スゴいと、思わずにはいられない。




私が初めて会ったとき、マイケルは14歳だった。
第一印象は「ずいぶんと綺麗な目をした子だなあ」。。。

でも

雰囲気的にはかなり暗かったかな。
まあ、思春期のそういう時期に差しかかっていたせいもあるとは思うが。

小学校まではケタケタよく笑うとても明るい男の子だったらしいが、それでも学校のお友達には
「両親は離婚した」
ではなく
「お母さんは死んだ」
と言っていたらしい。

今でも母親の話は滅多にしない。
一度「会いたくないか」と聞いてみたことがあるが
「会いたくない」と即答してきた。
その時は、なぜか私の胸が痛んだ。


夫と結婚することになったとき、私はマイケルのお母さんになろうとは思わなかった。
母親なんてそんな簡単になれるものではないと、分かっていたから。。。
ただ
いい友達になれたらいいな、ぐらいに思っていた。


さて、実際一緒に暮らしてみて2年ちょっと。
今思うことは、、、

100%友達では、ないなあ。。。
やっぱり
「ちょっと親」かな。
「お母さん」ではないのだけれど

ときどき「親」
ときどき「親戚のおばちゃん」
ときどき「友達」


て感じでしょうか? 笑

マイケルも私のことを「お母さん」とは呼ばない。名前で呼ぶ。
でも、友達に私のことを話すときは「My mom...」と言ってるそうだ。(旦那談)


日常生活でも日々の細かいことで叱るのは、だいたい夫。

部屋が汚い、片付けろ。
宿題したのか。
今のうちにシャワー浴びろ。



私が前に出て叱るときは、もっとシリアスな状況のときだ。

自分の発した言葉に対して、真摯であれ。
人にしたことはいずれ自分に返ってくる。
自分を粗末に扱うということは、親を一番悲しませることだ。
人を傷つけるような言葉を使うな。それを言うことで、結局は自分が傷つくことになる。



夫が叱ると、マイケルは右から左に流すか
または大体言い返してくる。
お父さん大好きなのは見え見えなんだけど、きっと夫に対しては甘えがあるのだろうな。
なかなか素直に言う事をきかないマイケル。


ところが私に対しては、まだ遠慮があるのか
はたまた、私がよっぽど怖いのか?(笑)

滅多に口答えはしてこない。大体は神妙にこちらの言うことを聞いている。。。


そんな時、ふと思うのです。
もしここで私が、赤ん坊の時から育てた実の母親だったら
やっぱり向かってくるんじゃないかなあ〜って。

そして思うのです。

この子の本当の母親は、今どこで何をしているのだろうと。

幼い我が子を手放して、その成長を傍らで見ることも出来なかった自分を
今どう思っているのだろうと。
後悔していないのだろうか。
それとも、
マイケルのことを思い出しもしないのだろうか。。。


マイケルはこの夏には19歳だ。
この先、20歳、30歳、40歳と年を重ねていって
もっともっと時間が経ったとき
そして彼自身も大人になり
いつか親になったとき
自分の実の母親に会ってみたいとは思わないだろうか。


夫はブルーアイだが、
マイケルは、お母さん譲りのダークアイ。
そして、これまたお母さん譲りのくるくる巻き毛の黒髪だ。

母と子の
おへそのつながり


容易いものではないよね。


マイケルを見ていて、ふとそんな事を考える今日この頃...。




(18年前のマイケル)










  
Posted by レニア at 21:05Comments(4)