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前世の縁
2013年08月28日
レニア山 (Mt. Rainier National Park)
2013年08月23日
3年前、色んな気持ちが内側に充満していて
それを「書く事で発散できないかな」と思い、ブログを始めた。
ハンドルネームを何にしようかなと考えたとき、咄嗟に浮かんだのが「レニア」という名前だった。
シアトルにある、大好きな山
「レニア山」から拝借した名前だ。
いずれ結婚するだろうなんて思いもしなかった、相方を訪ねて
ハワイからはるばる、初めてシアトルを訪れたとき
高速から見えたのがレニア山。
その景観を目にしたときの印象は、「ショックだった」というのが最も適切な表現で
長年住み慣れたハワイを去る気などこれっぽっちも無かった当時の私が
おそらく無意識のレベルで
「私はいずれここに住むだろう」っと直感した瞬間だったのかもしれない。
夏期講習をようやく教え終え、長かった今年度が終了した。
その瞬間、むしょうに「行きたい!!」と思ったのが、このレニア山だった。


シアトル市内から車で南下すること3時間ほど。
レニア山国立公園 に辿り着く。
入園料は車一台$15で、その入園パスは1週間有効となる。
今回はレニア山の麓にある、このホテルに泊まってみた。
なんと1916年に建築されたという、歴史あるホテルだ。
Paradise Inn (パラダイス・イン)


5月ー10月にしか営業していない、レニア山に一番近い老舗のホテル。
(冬期は雪に埋もれてしまうため)
さすが築100年近いホテル、全室に浴室があるわけではない。
今回はラッキーにも「浴室付き」のお部屋を確保することができたが
最近の近代的なホテルからは程遠い、簡素な作りに小さめのベッドがふたつ。
この部屋で、1泊$170ほど。

もちろんインターネットなんて有るはずもない。テレビも無い。
電話も無い。
ここまで来ると、携帯も通じない。

浴室もとてもシンプルな作りだったが、有難いことに「シャワールーム」だけでなくちゃんとバスタブ(浴槽)があった。
日ごろ湯につかる私にとっては、これは非常に助かった。

ロビーも 全てが木の温もりを基調としており、
なんとも言えぬ...安らぐ雰囲気。


ロビー上部には、ロフトのような空間があり
小さな木造のテーブルとイスが並べられていた。
ワイン片手にくつろぐ宿泊客の姿も見られた。

階下でピアノを弾く人の姿がよく見えた。
黒人の弾き手が奏でるその音色に、しばしうっとり。。。聞き入った。

フロントまえに置かれた、郵便ポスト。
レニア山にいるクマさんにちなんで、ポストもクマさん。可愛い...(^^)

レストランだって、ホテルにたった一つしかない。
しかも営業時間が限られている。

ディナーまえ、開店まぎわのレストラン。
奥のほうに大きな暖炉が見える。

私たちのテーブルについてくれたウェイトレスさんはケンタッキーから働きに来てると言っていた。
ホテル従業員はみんな、全米または世界中のあちこちから働きにきているのだそう。
夏のあいだだけこの国立公園内の宿泊施設で暮らし
10月になったらそれぞれの場所へ帰ってゆくのだとか。
「レニア山での暮らしはどう?」と聞いてみたら
「大自然に囲まれて働きながら、世界中の人に会えるから楽しい!」と彼女は笑顔で答えた。
さて、ホテルでの異次元空間を満喫するのも良いが
ここまで来たのならやはり山に登らなくては。
もっとレニア山の近くに、行ってみたい。

冬の間はすっぽり雪に埋もれるこの地域。
この花たちも冷たい雪の下で長い長い時間を生き延びる。

「あなたたちの一体どこに、そんなパワーがかくれているの???」
思わず問いかけたくなる。
厳しい冬を耐え忍んできたことなど微塵も感じさせないような、その謙虚で可憐な姿。

生命の神秘だなあ。
あの厳寒をどうやってしのいだらこんな見事な再生を繰り返せるのだろう。
こんなに、小さな体で。

国立公園内には野生動物も多く生息する。
この日お見かけしたのは
Deer (鹿)

Chipmunk (シマリス)

Marmot (モルモット)

そしてモルモットの夫婦(かな?)

歩き出しは緑とお花いっぱいだった、ハイキングコースも

標高が増すにつれ
なんと雪のかたまりに遭遇。8月だというのに。

遠くには更に頂上を目指す登山家たちが、夏の雪山講習を受けているのが見えた。


頂上とまではいかなくても
私たちもハイキングコースの一番高いところを目指して、歩き続けた。


今回トライしたのは「Skyline Trail(スカイライン・トレイル)というハイキングコース。
所要時間、約4時間。
家にいたら、20分おきにメールをチェックしてるような私でも
こういう場所にくると、全く感覚が変わる。
文明の利器から解放され
心がのびのびと深呼吸する。。。そんな感じ。
何も気にならない。極端な言い方をすると、どうでもよくなる。
大切なことは
たぶんそういうことではないんだと、漠然と理解する感じ。
自分が日々 考えあぐねていたり、思い悩んでいたりすることは
おそらく「生きること」に関して言えば
そう大したことではないのだと
そう思わせてくれる、大自然のおおらかさ。
レニア山国立公園
お疲れのかた。
心の浄化に、とても良いかと思います。
シアトルを訪れる機会のある方には、是非ともおすすめしたい場所だ。

それを「書く事で発散できないかな」と思い、ブログを始めた。
ハンドルネームを何にしようかなと考えたとき、咄嗟に浮かんだのが「レニア」という名前だった。
シアトルにある、大好きな山
「レニア山」から拝借した名前だ。
いずれ結婚するだろうなんて思いもしなかった、相方を訪ねて
ハワイからはるばる、初めてシアトルを訪れたとき
高速から見えたのがレニア山。
その景観を目にしたときの印象は、「ショックだった」というのが最も適切な表現で
長年住み慣れたハワイを去る気などこれっぽっちも無かった当時の私が
おそらく無意識のレベルで
「私はいずれここに住むだろう」っと直感した瞬間だったのかもしれない。
夏期講習をようやく教え終え、長かった今年度が終了した。
その瞬間、むしょうに「行きたい!!」と思ったのが、このレニア山だった。
シアトル市内から車で南下すること3時間ほど。
レニア山国立公園 に辿り着く。
入園料は車一台$15で、その入園パスは1週間有効となる。
今回はレニア山の麓にある、このホテルに泊まってみた。
なんと1916年に建築されたという、歴史あるホテルだ。
Paradise Inn (パラダイス・イン)


5月ー10月にしか営業していない、レニア山に一番近い老舗のホテル。
(冬期は雪に埋もれてしまうため)
さすが築100年近いホテル、全室に浴室があるわけではない。
今回はラッキーにも「浴室付き」のお部屋を確保することができたが
最近の近代的なホテルからは程遠い、簡素な作りに小さめのベッドがふたつ。
この部屋で、1泊$170ほど。

もちろんインターネットなんて有るはずもない。テレビも無い。
電話も無い。
ここまで来ると、携帯も通じない。

浴室もとてもシンプルな作りだったが、有難いことに「シャワールーム」だけでなくちゃんとバスタブ(浴槽)があった。
日ごろ湯につかる私にとっては、これは非常に助かった。

ロビーも 全てが木の温もりを基調としており、
なんとも言えぬ...安らぐ雰囲気。


ロビー上部には、ロフトのような空間があり
小さな木造のテーブルとイスが並べられていた。
ワイン片手にくつろぐ宿泊客の姿も見られた。

階下でピアノを弾く人の姿がよく見えた。
黒人の弾き手が奏でるその音色に、しばしうっとり。。。聞き入った。

フロントまえに置かれた、郵便ポスト。
レニア山にいるクマさんにちなんで、ポストもクマさん。可愛い...(^^)

レストランだって、ホテルにたった一つしかない。
しかも営業時間が限られている。
ディナーまえ、開店まぎわのレストラン。
奥のほうに大きな暖炉が見える。
私たちのテーブルについてくれたウェイトレスさんはケンタッキーから働きに来てると言っていた。
ホテル従業員はみんな、全米または世界中のあちこちから働きにきているのだそう。
夏のあいだだけこの国立公園内の宿泊施設で暮らし
10月になったらそれぞれの場所へ帰ってゆくのだとか。
「レニア山での暮らしはどう?」と聞いてみたら
「大自然に囲まれて働きながら、世界中の人に会えるから楽しい!」と彼女は笑顔で答えた。
さて、ホテルでの異次元空間を満喫するのも良いが
ここまで来たのならやはり山に登らなくては。
もっとレニア山の近くに、行ってみたい。
冬の間はすっぽり雪に埋もれるこの地域。
この花たちも冷たい雪の下で長い長い時間を生き延びる。

「あなたたちの一体どこに、そんなパワーがかくれているの???」
思わず問いかけたくなる。
厳しい冬を耐え忍んできたことなど微塵も感じさせないような、その謙虚で可憐な姿。

生命の神秘だなあ。
あの厳寒をどうやってしのいだらこんな見事な再生を繰り返せるのだろう。
こんなに、小さな体で。

国立公園内には野生動物も多く生息する。
この日お見かけしたのは
Deer (鹿)

Chipmunk (シマリス)

Marmot (モルモット)

そしてモルモットの夫婦(かな?)

歩き出しは緑とお花いっぱいだった、ハイキングコースも

標高が増すにつれ
なんと雪のかたまりに遭遇。8月だというのに。
遠くには更に頂上を目指す登山家たちが、夏の雪山講習を受けているのが見えた。


頂上とまではいかなくても
私たちもハイキングコースの一番高いところを目指して、歩き続けた。


今回トライしたのは「Skyline Trail(スカイライン・トレイル)というハイキングコース。
所要時間、約4時間。
家にいたら、20分おきにメールをチェックしてるような私でも
こういう場所にくると、全く感覚が変わる。
文明の利器から解放され
心がのびのびと深呼吸する。。。そんな感じ。
何も気にならない。極端な言い方をすると、どうでもよくなる。
大切なことは
たぶんそういうことではないんだと、漠然と理解する感じ。
自分が日々 考えあぐねていたり、思い悩んでいたりすることは
おそらく「生きること」に関して言えば
そう大したことではないのだと
そう思わせてくれる、大自然のおおらかさ。
レニア山国立公園
お疲れのかた。
心の浄化に、とても良いかと思います。
シアトルを訪れる機会のある方には、是非ともおすすめしたい場所だ。

あいぶみ(愛文)
2013年08月10日
「恋文(こいぶみ)」という言葉がある。
私たちの世代でも「ラブレター」という単語のほうが、ずっと馴染みがあるけれど
恋い焦がれる相手に思いを寄せた手紙のことだ。
では、
愛する相手に向けて綴る手紙は、なんと呼ぶのだろう...?
あいぶみ ?
ためしに「あ・い・ぶ・み」とパソコンで打ってみた。
「愛撫身」 とか
「相武身」 しか、出て来ない。
どうやら「恋文(こいぶみ)」はあるのに、「愛文(あいぶみ)」は存在しないらしい。
「恋」という感情と
「愛」という感情は、全く別物だが
一度愛してしまった相手には、もう手紙は書かないものなのだろうか。。。
私は相方にもう恋はしていない。
彼に対する感情は、「恋」とは全く異なるものだ。
その相方に、久しぶりに手紙を書いてみようと思った。(正しく言うとメールだが)
彼に手紙を書くのは、つき合っていた頃以来だ。
先日の「ほめ日記」で、自分の褒められる点を挙げるお話をさせていただいたが
それを探すのに何だかとっても苦労しているので
とりあえず
一番身近にいる相棒で練習してみるか、と思った次第だ。
相手が家に居ない時間帯を選んで、書いてみた。
夫は、ここ数週間はちょうど夜10時頃から朝までの出勤になっているので
夜に私ひとりの時間はたっぷりあったのだが
それでも、なんだか
日々を共にする相方に向けて書く手紙って、
書き出すだけでもちょっと戸惑う感じがするものなんだな。
それに気付いただけでも、自分の相手に対する心情が昔とは明らかに違ってきていることが伺える。
頭ガチガチな感じがしたので、ゆるゆる目指して
とりあえず一本飲んだ。(何でも飲む理由になる私 笑)
キャンドルに灯をともしてみる。
ロマンチックな二人の夜を演出するアイテムとして、代表選手のキャンドルだが
私は夫とふたりでいる時より、ひとりでいる時のほうが、キャンドルを灯す頻度は圧倒的に多い。
気持ちが静まる感じがするから。

あなたのこういうところが好きです
と思いつくまま、挙げてみた。
思ったとおり
書き始めてしまえば、自分に向けてより相方に向けてのほうがずっと書きやすい。
そして書きながら、ふと思ったのだ。
これは「恋文(こいぶみ)」ではないよなあ、と。
果たして、「愛文(あいぶみ)」という言葉は、存在するのだろうか? と...
恋する相手は、必ずしも自分のものとは限らない。
だから、まだ自分のものになっていない相手に向けて書かれる手紙も「ラブレター(恋文)」と呼ばれる。
「あなたのことがこんなに好きです。出来ることなら私のものになってほしい」
と、ほとばしる熱い思いを込めるラブレターは、
ともすれば「私がどうしてあなたを欲するか」に焦点が置かれており
「あなたが何を欲するか」を最重要項目として書かれたものでは、
必ずしもない。
いっぽう、愛する相手というのは
既に自分の生活の一部になっている存在か
又は自分のものになってほしいという欲求までをも、超越したところにいる人であったりして
そういう相手に対して綴る、特別な手紙に
名称が無いというのは、
なんだか不思議なことだなあ。。。
そういえば...
私も大昔に、愛してくれる人から手紙をもらったことがある。 母だ。
でもそれは、日常を共にしている時に受け取ったものではなく
家を離れて、遠くアメリカに留学していた時のことだった。
メールも携帯もない時代だったので、べらぼうに高い国際電話以外は「手紙」しかコミュニケーションの手段が無く
私を案じて綴ってくれた母の言葉には何度も励まされたり慰められたりした。
思えば、あれも「愛文(あいぶみ)」だったのだなあ。
家族として愛する相手にこそ、
「あなたは私にとって大切な人なんだよ」と言葉で伝えるのは、ものすごく大事な事のような気がする。
それを話し言葉ではなく、敢えて書き言葉で伝えると
それは物体として手元に残り
何度も何度も読み返せるという恩恵を与えてくれる。
でもそんな手紙を綴ろうとは
忙しい日常の中にあって、そうそう思わないし
家族だからこそ、思いを言葉にすることが
何だか照れくさい感もある。
私個人の印象を述べれば、
自分自身に向けて書く「ほめ日記」よりは、相棒に向けて書く手紙のほうがずっと書き易かったが。
さて、書き上げた「愛文(あいぶみ)」だが
実は相方には送信していない。 苦笑
これを読んだ彼が、まさか気分を害することはないだろうと思うのだが
なんだか送ることに躊躇してしまう(照れてしまう)のは
私と彼が、家族になった証なんだろう。
毎日を共にする、一番身近にいる人に向けて
思いを綴り、伝えるとは
どうしてこうも難しいものかな。
そんな自分が滑稽に思えたりもするが...
妻として自分が進化するチャンスとも解釈して、
「えいやっ!」と送信ボタンを押せる瞬間がやってくるのを
待っているところである。
私たちの世代でも「ラブレター」という単語のほうが、ずっと馴染みがあるけれど
恋い焦がれる相手に思いを寄せた手紙のことだ。
では、
愛する相手に向けて綴る手紙は、なんと呼ぶのだろう...?
あいぶみ ?
ためしに「あ・い・ぶ・み」とパソコンで打ってみた。
「愛撫身」 とか
「相武身」 しか、出て来ない。
どうやら「恋文(こいぶみ)」はあるのに、「愛文(あいぶみ)」は存在しないらしい。
「恋」という感情と
「愛」という感情は、全く別物だが
一度愛してしまった相手には、もう手紙は書かないものなのだろうか。。。
私は相方にもう恋はしていない。
彼に対する感情は、「恋」とは全く異なるものだ。
その相方に、久しぶりに手紙を書いてみようと思った。(正しく言うとメールだが)
彼に手紙を書くのは、つき合っていた頃以来だ。
先日の「ほめ日記」で、自分の褒められる点を挙げるお話をさせていただいたが
それを探すのに何だかとっても苦労しているので
とりあえず
一番身近にいる相棒で練習してみるか、と思った次第だ。
相手が家に居ない時間帯を選んで、書いてみた。
夫は、ここ数週間はちょうど夜10時頃から朝までの出勤になっているので
夜に私ひとりの時間はたっぷりあったのだが
それでも、なんだか
日々を共にする相方に向けて書く手紙って、
書き出すだけでもちょっと戸惑う感じがするものなんだな。
それに気付いただけでも、自分の相手に対する心情が昔とは明らかに違ってきていることが伺える。
頭ガチガチな感じがしたので、ゆるゆる目指して
とりあえず一本飲んだ。(何でも飲む理由になる私 笑)
キャンドルに灯をともしてみる。
ロマンチックな二人の夜を演出するアイテムとして、代表選手のキャンドルだが
私は夫とふたりでいる時より、ひとりでいる時のほうが、キャンドルを灯す頻度は圧倒的に多い。
気持ちが静まる感じがするから。

あなたのこういうところが好きです
と思いつくまま、挙げてみた。
思ったとおり
書き始めてしまえば、自分に向けてより相方に向けてのほうがずっと書きやすい。
そして書きながら、ふと思ったのだ。
これは「恋文(こいぶみ)」ではないよなあ、と。
果たして、「愛文(あいぶみ)」という言葉は、存在するのだろうか? と...
恋する相手は、必ずしも自分のものとは限らない。
だから、まだ自分のものになっていない相手に向けて書かれる手紙も「ラブレター(恋文)」と呼ばれる。
「あなたのことがこんなに好きです。出来ることなら私のものになってほしい」
と、ほとばしる熱い思いを込めるラブレターは、
ともすれば「私がどうしてあなたを欲するか」に焦点が置かれており
「あなたが何を欲するか」を最重要項目として書かれたものでは、
必ずしもない。
いっぽう、愛する相手というのは
既に自分の生活の一部になっている存在か
又は自分のものになってほしいという欲求までをも、超越したところにいる人であったりして
そういう相手に対して綴る、特別な手紙に
名称が無いというのは、
なんだか不思議なことだなあ。。。
そういえば...
私も大昔に、愛してくれる人から手紙をもらったことがある。 母だ。
でもそれは、日常を共にしている時に受け取ったものではなく
家を離れて、遠くアメリカに留学していた時のことだった。
メールも携帯もない時代だったので、べらぼうに高い国際電話以外は「手紙」しかコミュニケーションの手段が無く
私を案じて綴ってくれた母の言葉には何度も励まされたり慰められたりした。
思えば、あれも「愛文(あいぶみ)」だったのだなあ。
家族として愛する相手にこそ、
「あなたは私にとって大切な人なんだよ」と言葉で伝えるのは、ものすごく大事な事のような気がする。
それを話し言葉ではなく、敢えて書き言葉で伝えると
それは物体として手元に残り
何度も何度も読み返せるという恩恵を与えてくれる。
でもそんな手紙を綴ろうとは
忙しい日常の中にあって、そうそう思わないし
家族だからこそ、思いを言葉にすることが
何だか照れくさい感もある。
私個人の印象を述べれば、
自分自身に向けて書く「ほめ日記」よりは、相棒に向けて書く手紙のほうがずっと書き易かったが。
さて、書き上げた「愛文(あいぶみ)」だが
実は相方には送信していない。 苦笑
これを読んだ彼が、まさか気分を害することはないだろうと思うのだが
なんだか送ることに躊躇してしまう(照れてしまう)のは
私と彼が、家族になった証なんだろう。
毎日を共にする、一番身近にいる人に向けて
思いを綴り、伝えるとは
どうしてこうも難しいものかな。
そんな自分が滑稽に思えたりもするが...
妻として自分が進化するチャンスとも解釈して、
「えいやっ!」と送信ボタンを押せる瞬間がやってくるのを
待っているところである。
ほめ日記
2013年08月07日
毎日一生懸命がんばっている皆さん
学校で、職場で
自分の居場所に責任をもって
課された任務を、しんどくても精一杯こなして
いっぱいいっぱいの人もいるだろうか。
このブログ、通勤途中の電車の中で
ケータイで読んで下さってる方も多いようだが
私は車社会のアメリカに生きているので
電車にこそ乗らないが
通勤の運転中は、ぐるぐる思考の流れる時間
1日の始まりなら「今日はあれとあれと、あれをしなきゃ」とか
帰り道なら、今日できなかったことの反省点
「あれも出来なかった、これも出来なかった、あ〜私って、ダメダメ人間!」と、
自分に対する不甲斐なさ感が、脳みその中をかけめぐる。
日本人気性だろうか。
どうしても自分の「足りない部分」に注意がいってしまう。
そして自己嫌悪に陥る。
これを読んで下さってる方の中にも、そういう方はいるのでは...?
でも自分に向かう「マイナスの言葉」は、実は脳に大きなストレスを与えるのだそう。
「ほめ日記」というものの存在を、知った。
自分に対する褒め言葉だけを使って書く日記のことだ。
手塚千砂子さんという方が提唱者なのだそうで、
この日記をつけるようになって、
鬱がなおった、不眠が解消された、夫婦関係が改善された、等々の事例を読んだ。
人間の脳みそというのは、ポジティブな「言葉そのもの」に反応するらしく
その言葉が、誰によって発せられたかは認識しない、つまり全く関係なく
たとえ自分が自分に向かって発したほめ言葉でも、
他人に言われたのと同じように「嬉しいな〜」と解釈して
セロトニンやドーパミンを大量分泌するのだそう。
そして
精神が安定する、
「幸せ感」が溢れる、
「元気が出る」というしくみ。
言わば、自分の脳をちょっと上手に騙すテクニックと言えるかもしれない。
基本は「手書き」
その日、どんなに嫌なことがあったとしても
褒められることだけを拾って、日記に綴る。
下手するとネガティブになってしまう記述でも、なるべくポジティブに解釈して書く。
例えば
「なかなか仕事がはかどらなくて、今日は残業になった」 は
「丁寧に仕事をした」
「休みの日は片付けなきゃならないことが山ほどあったのに、結局一日ダラダラ過ごしてしまった」 は
「自分の体をゆっくり休ませてあげることができた」
ほめ上手になるキーワードは、
えらいね〜
すごいよー
よくやった!
立派!
上手上手
頭いいね
優しいね
大人だね
努力してるじゃん
がんばってるね
やればできる!
いいぞ、いいぞー!
さすが!
などなど。
上記のような言葉を、己に向かって発することに
違和感というか、照れ感というか
なんだかムズムズ感を覚えてしまうのは、私だけだろうか。
でも、これができることは非常に有益なことなのだそう。。。
何故なら
自分を褒めることができる人間は、
他人に対しても褒め上手になるから。
他人に対して褒め上手であるということは
それだけ幸せな人をこの世に増やすことになるからだ。
「ほめ日記」 始めてみようかなあ。
がんばってる自分を、誰も認めてくれなくても
「私自身が分かっている。それでいいじゃないか」
それを確認する作業になる。
しかも、そうした思いを敢えて文字化して
記すことによって
後になっても、自分に対するポジティブな言葉を読み返すことができる。
それ自体が元気の素になるかもしれない。
(ここがポイント。あとで自分で読み返して、ハッピーな気分になるような言葉だけを綴ること、だそう)
それにしても
ほめ言葉を聞いた、その脳が
体を安定に導く成分を分泌するということは
人間の体はもともと「ポジティブな言葉」によって最良の状態を維持されるよう、
DNAにプログラムされているということで
それが本当なら
毎日ごはんを食べたいと思ったり、
喉が渇いて、何か飲みたいなーと思ったり、
疲れたな〜眠りたいな〜と感じて睡眠したりするように
自然と「誰かを褒めたいな〜(自分が幸せになるから)」と思えない私たちは
まだまだ、
細胞の進化に心が追いついていない、未開発の存在なのかもしれない。
ちなみに私は、商売柄よく学生の上達を褒める。
褒められた相手は、それはそれは嬉しそうな表情を返してくれ
それを見て私自身も、それはそれは幸せな気持ちになる。
...が、
同じことを自分に対してしようなどとは、思ったこともない。
なんでだろう。。。
まだまだ未発達の人間だからだろうか。
例えば今から300年後の人類は、
己の健康と幸せのために
現代の私たちより、もっとほめ上手な人種になっているのだろうか。
そんな世の中になっていたら、素敵だなあ。
戦争なんて、
もうこの世に存在しなかったりして。
そしてそれこそが、進化した人類の姿だったりして。
でも、300年後の世の中を見る事のない
私も皆さんも
それでも
今は今で、この世の中を
精一杯生きている。
こうして今日という一日を、がんばって生き抜いた。
そんな皆さんとシェアしたいなと思った、
「ほめ日記」というものの存在。
私は、完璧からは程遠い人間だけれども
それでも
褒められる点は、探せばいくつかあるのかもしれない。
それを、他人ではなく
自分が認識することに
もしかしたら意義があるのかもしれない。
自分でみつける、
自分の「褒められる点」
よかったら皆さんも、今日から探してみませんか。
学校で、職場で
自分の居場所に責任をもって
課された任務を、しんどくても精一杯こなして
いっぱいいっぱいの人もいるだろうか。
このブログ、通勤途中の電車の中で
ケータイで読んで下さってる方も多いようだが
私は車社会のアメリカに生きているので
電車にこそ乗らないが
通勤の運転中は、ぐるぐる思考の流れる時間
1日の始まりなら「今日はあれとあれと、あれをしなきゃ」とか
帰り道なら、今日できなかったことの反省点
「あれも出来なかった、これも出来なかった、あ〜私って、ダメダメ人間!」と、
自分に対する不甲斐なさ感が、脳みその中をかけめぐる。
日本人気性だろうか。
どうしても自分の「足りない部分」に注意がいってしまう。
そして自己嫌悪に陥る。
これを読んで下さってる方の中にも、そういう方はいるのでは...?
でも自分に向かう「マイナスの言葉」は、実は脳に大きなストレスを与えるのだそう。
「ほめ日記」というものの存在を、知った。
自分に対する褒め言葉だけを使って書く日記のことだ。
手塚千砂子さんという方が提唱者なのだそうで、
この日記をつけるようになって、
鬱がなおった、不眠が解消された、夫婦関係が改善された、等々の事例を読んだ。
人間の脳みそというのは、ポジティブな「言葉そのもの」に反応するらしく
その言葉が、誰によって発せられたかは認識しない、つまり全く関係なく
たとえ自分が自分に向かって発したほめ言葉でも、
他人に言われたのと同じように「嬉しいな〜」と解釈して
セロトニンやドーパミンを大量分泌するのだそう。
そして
精神が安定する、
「幸せ感」が溢れる、
「元気が出る」というしくみ。
言わば、自分の脳をちょっと上手に騙すテクニックと言えるかもしれない。
基本は「手書き」
その日、どんなに嫌なことがあったとしても
褒められることだけを拾って、日記に綴る。
下手するとネガティブになってしまう記述でも、なるべくポジティブに解釈して書く。
例えば
「なかなか仕事がはかどらなくて、今日は残業になった」 は
「丁寧に仕事をした」
「休みの日は片付けなきゃならないことが山ほどあったのに、結局一日ダラダラ過ごしてしまった」 は
「自分の体をゆっくり休ませてあげることができた」
ほめ上手になるキーワードは、
えらいね〜
すごいよー
よくやった!
立派!
上手上手
頭いいね
優しいね
大人だね
努力してるじゃん
がんばってるね
やればできる!
いいぞ、いいぞー!
さすが!
などなど。
上記のような言葉を、己に向かって発することに
違和感というか、照れ感というか
なんだかムズムズ感を覚えてしまうのは、私だけだろうか。
でも、これができることは非常に有益なことなのだそう。。。
何故なら
自分を褒めることができる人間は、
他人に対しても褒め上手になるから。
他人に対して褒め上手であるということは
それだけ幸せな人をこの世に増やすことになるからだ。
「ほめ日記」 始めてみようかなあ。
がんばってる自分を、誰も認めてくれなくても
「私自身が分かっている。それでいいじゃないか」
それを確認する作業になる。
しかも、そうした思いを敢えて文字化して
記すことによって
後になっても、自分に対するポジティブな言葉を読み返すことができる。
それ自体が元気の素になるかもしれない。
(ここがポイント。あとで自分で読み返して、ハッピーな気分になるような言葉だけを綴ること、だそう)
それにしても
ほめ言葉を聞いた、その脳が
体を安定に導く成分を分泌するということは
人間の体はもともと「ポジティブな言葉」によって最良の状態を維持されるよう、
DNAにプログラムされているということで
それが本当なら
毎日ごはんを食べたいと思ったり、
喉が渇いて、何か飲みたいなーと思ったり、
疲れたな〜眠りたいな〜と感じて睡眠したりするように
自然と「誰かを褒めたいな〜(自分が幸せになるから)」と思えない私たちは
まだまだ、
細胞の進化に心が追いついていない、未開発の存在なのかもしれない。
ちなみに私は、商売柄よく学生の上達を褒める。
褒められた相手は、それはそれは嬉しそうな表情を返してくれ
それを見て私自身も、それはそれは幸せな気持ちになる。
...が、
同じことを自分に対してしようなどとは、思ったこともない。
なんでだろう。。。
まだまだ未発達の人間だからだろうか。
例えば今から300年後の人類は、
己の健康と幸せのために
現代の私たちより、もっとほめ上手な人種になっているのだろうか。
そんな世の中になっていたら、素敵だなあ。
戦争なんて、
もうこの世に存在しなかったりして。
そしてそれこそが、進化した人類の姿だったりして。
でも、300年後の世の中を見る事のない
私も皆さんも
それでも
今は今で、この世の中を
精一杯生きている。
こうして今日という一日を、がんばって生き抜いた。
そんな皆さんとシェアしたいなと思った、
「ほめ日記」というものの存在。
私は、完璧からは程遠い人間だけれども
それでも
褒められる点は、探せばいくつかあるのかもしれない。
それを、他人ではなく
自分が認識することに
もしかしたら意義があるのかもしれない。
自分でみつける、
自分の「褒められる点」
よかったら皆さんも、今日から探してみませんか。