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Posted by チェスト at

夢を見た

2013年11月30日

かなしい夢をみた。



...という書き出しで、大昔に作文を書いたことがある。

高校2年生の時だ。
母が私のことを忘れるという夢をみた。

目が覚めたあとも、背中にズズーッ...と寒いものが走るほど
夢の光景は鮮明で、リアルだった。

30年近く経った今でも覚えているほどだ。



今朝も、夢をみた。


かなしい夢ではなかった。


でも目覚めた時、どちらが現実か?と
混乱するぐらい
非常にリアルな夢だった。


夢の中で、私は大海原をみおろす浜辺に立っていた。


180度、グルーッと見渡すかぎり、海だった。


その水は透明ではなく
緑がかった、
なんとも言えない穏やかな青をたたえており

雲が立ちこめた空からは、光の帯がいくつも下りていた。



そして海原の水面には

おびただしい数の

クジラ、クジラ、クジラ...!!!


ものすごい数だった。


巨体のクジラたちが、跳ねたり飛んだり、、、

共に、一緒にいるのが嬉しくてたまらないといった様子で
戯れて遊んでいるように見えた。

私はその光景を目にしながら、ゆっくり水際まで下りていき
水に足を浸してみた。

その温度を、今でも体感出来るほどリアルに覚えている。
温かかった。


「わぁ...温かいね」

ふいに私は、誰かに向かって言葉を発した。


見るととなりに女の子が立っている。どうやら彼女に向かって話しかけたらしい。

顔を見て、「あ、テイラーさんだ」と思った。
私の学生だ。

でも実生活では18歳の彼女は、私の夢のなかでは10歳にも満たない女の子だった。


「さっきまで○○クジラがいたけど、(私が)来るのが遅かったから見逃しちゃったよ」

と彼女は言った。

(この「○○」が何なのかは覚えていない)



そうなの


と答えながら、私は心のなかで

「でもまた会えるから大丈夫」と知っていた。





...そして目が覚めた。




ベッドのなかで一瞬、「ここはどこだろう?」と思った。

私の顔のすぐ横で、すやすやと眠るネコのキキの耳が視界に入る。それで自分がどこにいるかを認識した。


夢だったんだ。。。。



たった今あとにしてきた、あの優しい青緑の海原に、踊るクジラたちの光景が
まだ、ありありと脳裏にあって

もしも私が画家だったらすぐにそれをキャンバスに映したことだろう。





夢は、いつもどちらかというと覚えているほうだが、、、



今朝の夢は「夢か?」と疑うほどあまりにも鮮明で


夢は、自分の潜在意識、またはハイヤーセルフから
または、
もっと上の存在からのメッセージだったりすると
何かで読んだことがあるけれど

夢分析とかは全くわからないし、自分では出来ないので



祝日の朝、仕事へ行かなくてもいいことを幸いに
とりあえず「クジラの夢」でググってみた。

そしたらこんなサイトに遭遇。
http://www.geocities.jp/dreamusic7/



夢なんて、漠然と見ていて
たとえ覚えていても

「へんな夢みちゃったなー」 とか
「いい夢だったな〜、夢で残念!」 とか

そんなレベルで終わっていたのに


ひとつひとつのキーワードにここまで複雑な意味があるとは、、、



世の中には様々な事を知っている人がいるのだなあ。

その豊富な知識に、自宅のデスクに座ってコーヒー飲みながら瞬時にアクセスできるなんて
すごい時代になったものだ。







さてブラック・フライデー(感謝祭明けの金曜日)の今日

出来ることなら外出したくなかったのだが



この連休中に済ませなければならない諸用が溜まりに溜まっていたので
午後から仕方なく外出


街中の店は既にクリスマス色に包まれていた。




うちは未だツリーを出していないが


こうして店頭に並べられたオーナメントを見ると訳も無くウキウキしてしまうのは




自分の中にまだ「子供の私」が生き残っている証かなと、思ったりもして

普段はあまり繋がる機会がないけれど、

それでも、ずっと居てほしいなあと思ったりもして




そんなことを考えながら、キラキラしたものが溢れるモールの中を歩いていたらふと思った。



悲しい母の夢を見た17歳の私と
クジラの夢を見た今朝の私と

ひとつ、共通点があるとしたら


自分から迷子になりかけていたことかもしれないなあ...と


体の外で起こる事象のめまぐるしさに心が占領されて

自分の内側と繋がる機会など持てず
どうすればそれが上手く出来るのかも、よく分からなくて



もしかしたらそんな私に

「自分の中心に戻っておいで...」

と、内側からなにかが語りかけているのかもしれない。




青緑色の海を、楽しそうに踊るクジラを見ていた私は

「欠けているものなど、なにもない」  という確信に満ちた一体感で

自分の軸と共にあったような気がする

だからあれほどリアルに感じられた。




普段、肉体レベルで感知できる表層意識のみをもって

自分がじつは何者であるかをきちんと把握していて、毎日を生きている人なんて

どれぐらいいるのだろうか...?


憧れるけど、
私にはおそらくムリ。


だが、そんな私でも
深いレベルでは己が何者かをきちんと把握していて

その、深いレベルでの自分が

繋がろうとしてくる

夢は、そのために大きな役割を担うのかもしれない。





「自分が実は何を考えて生きているのか」なんて、他人のことより分からない

ましてや、自分が何者かなんて
たぶん最期の日までわからない。

でも、それを探求するのを完全に放棄して
人生を真摯に生きることなんて出来ない気がする。




クジラを眺めていた私は、純粋に「ひとつ」感があって、
安心していた。

あの感覚を起きている間に持ち続けるのは難しい。

でもなにか離れてるなと感じたら、
あの大海原のクジラの光景を、思い描こう。





皆さんは、今夜どんな夢をご覧になるだろうか。

そしてそれは何を語りかけてきただろうか。






  
Posted by レニア at 18:40Comments(0)

なくした指輪

2013年11月17日

この夏帰国した時に
鹿児島に住む高校の同級生が、おしゃれな「手ぬぐい」の店に連れていってくれた。


「手ぬぐい」をこうしてインテリアとして「飾る」という感覚。


その感覚が新鮮で、2枚ほど購入して帰ってきたというのに

それを11月の今ごろになって、やっと飾っているという始末。



私がガタガタと脚立を持ち出す音を聞きつけると、「なんだなんだ!?」と走りよってくるココ。

どうやら座らないと気がすまないらしい。 笑



今回購入した「手ぬぐい」にもさりげなく、2匹のにゃんこの姿が。。。


これを見た夫は 「色合いがいいね」

そして

「あ、キキとココがいるね」



これを飾っただけで、家全体に少し「和」の空気が漂い始めたようで
とても落ち着くし、意味もなく嬉しい。







先日の記事でも言及した、今読んでいる本に心に残る一節があったので
今日のブログに書き留めておきたい。

(以下、その本から簡略化して抜粋)




私(筆者)は、ある末期ガン患者のもとへカウンセラーとして通っていたことがあった。

その患者は40代の女性で、もと教員、医師からは余命数ヶ月と宣告されていた。

ある日訪ねると、彼女はひどくがっかりし、そして怒っていた。
話を聞くと、ダイヤの指輪がなくなったと言う。


金銭的な価値も去ることながら、彼女にとってはとても思い出深い品だった。

「きっと毎日数時間、世話をしにくる女性が盗んだに違いない。病人に対してよくもそんな酷いことができるものだ」と彼女は言った。

そして、本人に問いただすべきか、それともすぐに警察に通報したほうがいいかと私の意見を聞いてきた。

私は、どうすべきか指図はできないが、それ以前にその指輪が今のあなたにとってどれほど重要なのかを考えてみてはどうか?と助言した。

彼女は言った。

「あなたはお分かりにならない。あれは祖母からもらった大切な指輪でした。毎日はめていたけど病気で指がむくんではめられなくなったんです。あれはただの指輪じゃないんです。」

その声にこめられた、勢い、怒り、そして自己防衛の響きは
彼女の本質ではなく
彼女をとおしてまだ「エゴ」が発言しているしるしだった。

私は言った。

「では、いくつか質問をします。すぐに答えなくていいですから、自分の中に答えが見つかるかどうか探してみてください。質問ごとに、少し間をあけます。たとえ答えが浮かんだとしても、それを言葉にはしなくてもいいですよ。」

どうぞ聞いてください、と彼女は言った。


「あなたはいずれ、それもたぶん近いうちに、その指輪を手放さなくてはならない。そのことに気付いていますか?」

「......」



「それを手放す用意ができるまで、あとどれほどの時間が必要でしょう?」

「......」



「手放したら、自分が小さくなりますか?」

「......」



「それがなくなったら、あなたは損なわれますか?」

「......」


最後の質問のあと、しばらく沈黙があった。



そしてふたたび話し始めた時、彼女の顔には安らかな微笑みが浮かんでいた。


「最後の質問で、とても大切なことに気づきました。
私の心から出た最初の答えは『そりゃ、もちろん損なわれるわ!』でした。でも、そこでもう一度問い直してみたんです。

『私は、、、損なわれるだろうか?』

そうしたらふいに、『私は在る』と感じる気持ちが沸いてきたんです。

こんなふうに感じたのは初めてだわ。こんなに強く自分を感じられるなら、私は全く損なわれていないはず。今とても生き生きとした自分を感じられます。」


私は言った。

「それがエゴを乗り越えた、本来のあなたです。あなたは実は指輪ではなく、指輪にこめられた『私のモノ』という思考に執着していたのです。あなたはその指輪と自分を混同していたんですよ。モノを評価して大切にするのはいいが、それに執着を感じたら、それはエゴだと気づかなくてはなりません。」


彼女は言った。

「いまようやく、これまでどうしても分からなかった『下着を取ろうとする者がいたら、上着も与えなさい』というイエスの言葉の意味が理解できました。」

「その通りです」と私は答えた。

「その言葉は、決してドアに鍵をかけるなという意味じゃありません。ときには手放すほうが、守ったりしがみついたりするよりもはるかに力強い行いだ、という意味なんですよ。」




それから身体がますます衰弱していった最後の数週間、

彼女はまるで、光が内側から輝き出しているように明るかった。

いろいろな人にたくさんのモノを分け与えたが、そのなかには指輪を盗んだと疑った女性も入っていた。

そして与えるたびに、彼女の喜びはますます深くなっていった。



彼女の死を知らせてきた母親は、彼女が亡くなった後で
例の指輪がバスルームの戸棚で見つかったと言った。



手伝いの女性が指輪を返したのか、それともずっとそこに置き忘れられていたのか?
それは誰にもわからない。

わかっていることは、ただひとつ。


人生は、意識の進化に最も役立つ経験を私たちに与えるということだ。



今起こっていることが、自分に必要だとどうしてわかるのか?

それは現に、
この瞬間に体験しているからだ。



(エックハルト・トール著 Eckhart Tolle『ニュー・アース』より)






このお話では、この方がなくしたものは「指輪」だったが

これを例えば、自分が失って「辛い、悔しい、悲しい」と思うもの、または過去に思ったものに置き換えて読み返すと


そのモノと自分を混同していたのだ


という言葉が


突如、テコでも動かないような絶対的な重さと

同時に

いたわりを込めた慈愛を持って


胸に深く響いてくるのは、、、 私だけだろうか。






「今起こっていることが、私に必要な事だなんて、どうして分かるの?」




 だって現に今、起こっているから。









  
Posted by レニア at 17:09Comments(19)自分さがし

永遠はない

2013年11月03日

紅葉も、そろそろその体を地に落とし始め

シアトルは秋の終わりを迎えている。



目がくらむほどの緑だった木々たちは

最後の命を真っ赤に燃やし
ここまでだね、さよなら...と逝く。





夏の間、青々しく茂っていた頃よりも、私はこの
最期の瞬間の木々たちにむしろ強く命を感じる。



ふと思い出すのは、臨終の頃の
祖母の指。

90歳を超えた、意識不明のその女性は
孫がシアトルから駆けつけたことを知る由もなく

様々な機器につながれて一定のリズムで呼吸のみを繰り返し
黙って病院のベッドに横たわっていた。

目にとまったのは、指。

そのシワだらけの細く白い指。

なんて綺麗なんだろう。。。と思った。






季節の移り変わりは、形あるものには必ず終わりがくることを
私たち人間に教えてくれる。


たとえば今、自分の視界にうつるもの

目の前のパソコンのモニター
書棚に並んだ本
お気に入りのイス
デスクのとなりですやすや眠っているネコ
寝室ですやすや眠っている夫

そして、今この瞬間キーボードを叩いている自分の指

全てが、50年後には
もうひとつも存在していないだろう。
本当にひとつも。




永遠に存続するものなど無い。だからこそ今に価値がある。

終わること自体は悪ではないのだろうと思う。自然の摂理だから。
それを悲しいと受け取るのは人間の感情なんだろう。
祖母が亡くなった時は本当に悲しかった。
そしてそれは残された私という人間が感じたことだ。
当の祖母は、やっと苦しみから解放されてむしろ幸せだったかもしれない。


そうした辛い別離はこれから何度も体験するだろう。永遠に生きる人などいないのだから。



死別でなくても別れは訪れる。自分の日常に当たり前のように居た人がある日突然去ってしまうことがある。
「死」という、どうにもならない事情でなく 相手の意思で去ってゆく。

その時、残された者が受ける傷はまた違った深さと痛みがあると思う。



では何故、そこまで傷つくかというと

その人と一緒にいた自分というイメージに、自分が価値を置いていたからだ。

「あの人が存在していた私という人間」に価値があったからだ。


そのイメージが損なわれたがゆえ
「私」は傷ついているのだ。

...という本を、今読んでいる。



秋になって枯れ葉が散っていっても
それに対して腹を立てる人はいない。

「この私をおいて散ってゆくなんて。なんて非情な。裏切り者!」と
腹を立てる人はいない。


何故だろう...



それは

「葉が生い茂る木々囲まれた、ハッピーな私」というイメージに

人間が固執していないから。





殆どの人が たとえば


親に愛され慈しまれた、子供としての自分

「ママ大好き!」と言ってもらえる我が子がいる、親としての自分

職場で頼りにされている、社会人としての自分

愛してくれるパートナーがとなりにいる自分




そうした自己のイメージに価値をおいているため、
それを亡くした時に大きな傷を受ける。
絶望感に這い上がれなくなったりする...のだそう




だが、すべての出会いは別れを含んでいる。


それは青々と生い茂っていた木々がいつか葉を紅く染め散ってゆくようなもの。
人間にはどうすることもできない宇宙の真理であり、自然の摂理である。


そこに自分の存在価値を転化してはいけない。


木々が葉を落としても落とさなくても
花が咲いていても散ってしまっても
その人が、たとえ側にいても、去ってしまっても

私という人間が、今ここに在る

そのことに、その意味に、何ひとつ変わりはないのだから。

私という存在は、他者によって定義されるものではないのだから。






そう実感できた時に、人はやっと「イメージの束縛」から自由になり

「いま」と「じぶん」を堪能することができ

己を最大限に生かしてゆけるのだそう。

真の幸福感につながってゆくのだそう。




その「真理」に気付くことが
地球人類の、次の段階への

進化だそうです。



この進化をとげないと、

つまり人間が形あるもの(便利な暮らし、お金、仕事、若さ、健康な体、変わらない関係など)への執着から自分を解放し

変わりゆくものに翻弄されない、それを悲しまない
そうした「次レベル」へ意識改革を遂げないと

地球は存続が危ぶまれるのだとか。。。

(確かに地球が今直面している多くのダメージは、人間の強い「固執する気持ち」が引き起こしたものかもしれない)






週末に入って、そんな本のページをめくる時間を持て
ふと窓の外をみたら

風にあおられて木々の葉がはらはらと散ってゆく。

この木々たちは
自分の現状を少しでも長く維持しようと

戦うでもなく、抵抗するでもなく

美容液を塗るでもなく、ボトックスをうつでもなく
葉は落ちるまいと枝にしがみつくでもなく
誰かにすがったり、誰かを恨んだり
泣き叫んだりするわけでもなく


ただ、まかせている。


ただ、まかせているんだな〜、、、と思ったことでした。


私たち人間は「ただまかせる」ことから、遠く離れてしまった。











形あるものに永遠はない。

それを受け入れて初めて

形ないものの永遠を手にすることができる。

パラドックスのようだけど、、、



それに最初に気付いた人間は、イエスとブッダだったそうです。

それから2000年以上経ったというのに
人類は相変わらず、あまり代わり映えしないかもしれないな。



こんなことを偉そうに書いている私も、単純な人間の脳みそしか持ち合わせていないもので
この真理をイマイチ咀嚼できていない。


でも、意識して気付くことが

進化の始まりなのだそう

だから
意識してゆきたいと思う。




「永遠はない」 でもそれでいいやん。 受け入れるわ。






出会い 「こんにちは。会えて嬉しいな。来てくれてありがとう。よろしくね。」

別れ  「出会えてよかった。今までありがとう。さようなら。」

また出会い... 「こんにちは。来てくれてありがとう。一緒にいる間よろしくね。」






芽を出した葉が、枯れて、散って、また来年には芽を出す

始まって、終わって、また始まる。




過去や未来に自分は居ない。居るのは「いま」。

「いま」を大切に実感する。
「いま」は絶え間なくおとずれる。



それが実は、永遠なのかもしれない。






  
Posted by レニア at 17:20Comments(13)