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なくした指輪
2013年11月17日
この夏帰国した時に
鹿児島に住む高校の同級生が、おしゃれな「手ぬぐい」の店に連れていってくれた。
「手ぬぐい」をこうしてインテリアとして「飾る」という感覚。
その感覚が新鮮で、2枚ほど購入して帰ってきたというのに
それを11月の今ごろになって、やっと飾っているという始末。
私がガタガタと脚立を持ち出す音を聞きつけると、「なんだなんだ!?」と走りよってくるココ。
どうやら座らないと気がすまないらしい。 笑

今回購入した「手ぬぐい」にもさりげなく、2匹のにゃんこの姿が。。。
これを見た夫は 「色合いがいいね」
そして
「あ、キキとココがいるね」
これを飾っただけで、家全体に少し「和」の空気が漂い始めたようで
とても落ち着くし、意味もなく嬉しい。

先日の記事でも言及した、今読んでいる本に心に残る一節があったので
今日のブログに書き留めておきたい。
(以下、その本から簡略化して抜粋)
私(筆者)は、ある末期ガン患者のもとへカウンセラーとして通っていたことがあった。
その患者は40代の女性で、もと教員、医師からは余命数ヶ月と宣告されていた。
ある日訪ねると、彼女はひどくがっかりし、そして怒っていた。
話を聞くと、ダイヤの指輪がなくなったと言う。
金銭的な価値も去ることながら、彼女にとってはとても思い出深い品だった。
「きっと毎日数時間、世話をしにくる女性が盗んだに違いない。病人に対してよくもそんな酷いことができるものだ」と彼女は言った。
そして、本人に問いただすべきか、それともすぐに警察に通報したほうがいいかと私の意見を聞いてきた。
私は、どうすべきか指図はできないが、それ以前にその指輪が今のあなたにとってどれほど重要なのかを考えてみてはどうか?と助言した。
彼女は言った。
「あなたはお分かりにならない。あれは祖母からもらった大切な指輪でした。毎日はめていたけど病気で指がむくんではめられなくなったんです。あれはただの指輪じゃないんです。」
その声にこめられた、勢い、怒り、そして自己防衛の響きは
彼女の本質ではなく
彼女をとおしてまだ「エゴ」が発言しているしるしだった。
私は言った。
「では、いくつか質問をします。すぐに答えなくていいですから、自分の中に答えが見つかるかどうか探してみてください。質問ごとに、少し間をあけます。たとえ答えが浮かんだとしても、それを言葉にはしなくてもいいですよ。」
どうぞ聞いてください、と彼女は言った。
「あなたはいずれ、それもたぶん近いうちに、その指輪を手放さなくてはならない。そのことに気付いていますか?」
「......」
「それを手放す用意ができるまで、あとどれほどの時間が必要でしょう?」
「......」
「手放したら、自分が小さくなりますか?」
「......」
「それがなくなったら、あなたは損なわれますか?」
「......」
最後の質問のあと、しばらく沈黙があった。
そしてふたたび話し始めた時、彼女の顔には安らかな微笑みが浮かんでいた。
「最後の質問で、とても大切なことに気づきました。
私の心から出た最初の答えは『そりゃ、もちろん損なわれるわ!』でした。でも、そこでもう一度問い直してみたんです。
『私は、、、損なわれるだろうか?』
そうしたらふいに、『私は在る』と感じる気持ちが沸いてきたんです。
こんなふうに感じたのは初めてだわ。こんなに強く自分を感じられるなら、私は全く損なわれていないはず。今とても生き生きとした自分を感じられます。」
私は言った。
「それがエゴを乗り越えた、本来のあなたです。あなたは実は指輪ではなく、指輪にこめられた『私のモノ』という思考に執着していたのです。あなたはその指輪と自分を混同していたんですよ。モノを評価して大切にするのはいいが、それに執着を感じたら、それはエゴだと気づかなくてはなりません。」
彼女は言った。
「いまようやく、これまでどうしても分からなかった『下着を取ろうとする者がいたら、上着も与えなさい』というイエスの言葉の意味が理解できました。」
「その通りです」と私は答えた。
「その言葉は、決してドアに鍵をかけるなという意味じゃありません。ときには手放すほうが、守ったりしがみついたりするよりもはるかに力強い行いだ、という意味なんですよ。」
それから身体がますます衰弱していった最後の数週間、
彼女はまるで、光が内側から輝き出しているように明るかった。
いろいろな人にたくさんのモノを分け与えたが、そのなかには指輪を盗んだと疑った女性も入っていた。
そして与えるたびに、彼女の喜びはますます深くなっていった。
彼女の死を知らせてきた母親は、彼女が亡くなった後で
例の指輪がバスルームの戸棚で見つかったと言った。
手伝いの女性が指輪を返したのか、それともずっとそこに置き忘れられていたのか?
それは誰にもわからない。
わかっていることは、ただひとつ。
人生は、意識の進化に最も役立つ経験を私たちに与えるということだ。
今起こっていることが、自分に必要だとどうしてわかるのか?
それは現に、
この瞬間に体験しているからだ。
(エックハルト・トール著 Eckhart Tolle『ニュー・アース』より)

このお話では、この方がなくしたものは「指輪」だったが
これを例えば、自分が失って「辛い、悔しい、悲しい」と思うもの、または過去に思ったものに置き換えて読み返すと
そのモノと自分を混同していたのだ
という言葉が
突如、テコでも動かないような絶対的な重さと
同時に
いたわりを込めた慈愛を持って
胸に深く響いてくるのは、、、 私だけだろうか。
「今起こっていることが、私に必要な事だなんて、どうして分かるの?」
だって現に今、起こっているから。
鹿児島に住む高校の同級生が、おしゃれな「手ぬぐい」の店に連れていってくれた。
「手ぬぐい」をこうしてインテリアとして「飾る」という感覚。
その感覚が新鮮で、2枚ほど購入して帰ってきたというのに
それを11月の今ごろになって、やっと飾っているという始末。
私がガタガタと脚立を持ち出す音を聞きつけると、「なんだなんだ!?」と走りよってくるココ。
どうやら座らないと気がすまないらしい。 笑

今回購入した「手ぬぐい」にもさりげなく、2匹のにゃんこの姿が。。。
これを見た夫は 「色合いがいいね」
そして
「あ、キキとココがいるね」
これを飾っただけで、家全体に少し「和」の空気が漂い始めたようで
とても落ち着くし、意味もなく嬉しい。

先日の記事でも言及した、今読んでいる本に心に残る一節があったので
今日のブログに書き留めておきたい。
(以下、その本から簡略化して抜粋)
私(筆者)は、ある末期ガン患者のもとへカウンセラーとして通っていたことがあった。
その患者は40代の女性で、もと教員、医師からは余命数ヶ月と宣告されていた。
ある日訪ねると、彼女はひどくがっかりし、そして怒っていた。
話を聞くと、ダイヤの指輪がなくなったと言う。
金銭的な価値も去ることながら、彼女にとってはとても思い出深い品だった。
「きっと毎日数時間、世話をしにくる女性が盗んだに違いない。病人に対してよくもそんな酷いことができるものだ」と彼女は言った。
そして、本人に問いただすべきか、それともすぐに警察に通報したほうがいいかと私の意見を聞いてきた。
私は、どうすべきか指図はできないが、それ以前にその指輪が今のあなたにとってどれほど重要なのかを考えてみてはどうか?と助言した。
彼女は言った。
「あなたはお分かりにならない。あれは祖母からもらった大切な指輪でした。毎日はめていたけど病気で指がむくんではめられなくなったんです。あれはただの指輪じゃないんです。」
その声にこめられた、勢い、怒り、そして自己防衛の響きは
彼女の本質ではなく
彼女をとおしてまだ「エゴ」が発言しているしるしだった。
私は言った。
「では、いくつか質問をします。すぐに答えなくていいですから、自分の中に答えが見つかるかどうか探してみてください。質問ごとに、少し間をあけます。たとえ答えが浮かんだとしても、それを言葉にはしなくてもいいですよ。」
どうぞ聞いてください、と彼女は言った。
「あなたはいずれ、それもたぶん近いうちに、その指輪を手放さなくてはならない。そのことに気付いていますか?」
「......」
「それを手放す用意ができるまで、あとどれほどの時間が必要でしょう?」
「......」
「手放したら、自分が小さくなりますか?」
「......」
「それがなくなったら、あなたは損なわれますか?」
「......」
最後の質問のあと、しばらく沈黙があった。
そしてふたたび話し始めた時、彼女の顔には安らかな微笑みが浮かんでいた。
「最後の質問で、とても大切なことに気づきました。
私の心から出た最初の答えは『そりゃ、もちろん損なわれるわ!』でした。でも、そこでもう一度問い直してみたんです。
『私は、、、損なわれるだろうか?』
そうしたらふいに、『私は在る』と感じる気持ちが沸いてきたんです。
こんなふうに感じたのは初めてだわ。こんなに強く自分を感じられるなら、私は全く損なわれていないはず。今とても生き生きとした自分を感じられます。」
私は言った。
「それがエゴを乗り越えた、本来のあなたです。あなたは実は指輪ではなく、指輪にこめられた『私のモノ』という思考に執着していたのです。あなたはその指輪と自分を混同していたんですよ。モノを評価して大切にするのはいいが、それに執着を感じたら、それはエゴだと気づかなくてはなりません。」
彼女は言った。
「いまようやく、これまでどうしても分からなかった『下着を取ろうとする者がいたら、上着も与えなさい』というイエスの言葉の意味が理解できました。」
「その通りです」と私は答えた。
「その言葉は、決してドアに鍵をかけるなという意味じゃありません。ときには手放すほうが、守ったりしがみついたりするよりもはるかに力強い行いだ、という意味なんですよ。」
それから身体がますます衰弱していった最後の数週間、
彼女はまるで、光が内側から輝き出しているように明るかった。
いろいろな人にたくさんのモノを分け与えたが、そのなかには指輪を盗んだと疑った女性も入っていた。
そして与えるたびに、彼女の喜びはますます深くなっていった。
彼女の死を知らせてきた母親は、彼女が亡くなった後で
例の指輪がバスルームの戸棚で見つかったと言った。
手伝いの女性が指輪を返したのか、それともずっとそこに置き忘れられていたのか?
それは誰にもわからない。
わかっていることは、ただひとつ。
人生は、意識の進化に最も役立つ経験を私たちに与えるということだ。
今起こっていることが、自分に必要だとどうしてわかるのか?
それは現に、
この瞬間に体験しているからだ。
(エックハルト・トール著 Eckhart Tolle『ニュー・アース』より)

このお話では、この方がなくしたものは「指輪」だったが
これを例えば、自分が失って「辛い、悔しい、悲しい」と思うもの、または過去に思ったものに置き換えて読み返すと
そのモノと自分を混同していたのだ
という言葉が
突如、テコでも動かないような絶対的な重さと
同時に
いたわりを込めた慈愛を持って
胸に深く響いてくるのは、、、 私だけだろうか。
「今起こっていることが、私に必要な事だなんて、どうして分かるの?」
だって現に今、起こっているから。