帰郷 2011... 知覧
今回の帰国の目玉でした。
知覧「特攻平和会館」
妹が仕事を休んで、つき合ってくれました。
(自分で運転して行ったら、おそらく迷子になってただろう)
我が子を特攻隊員として送った、母の像。
この像の前に立っただけで、祈念館に入るまえから涙が出てきました。
館内に入ると、まずこの絵が目に入りました。
(館内はカメラ撮影禁止だったので、これはサイトから拝借したもの)
撃沈する戦闘機から、特攻隊員を抱き上げて昇天させる天女の絵
夫とふたり、しばらく立ち止まって見入りました。
平和会館に到着するまでは
見た目「アメリカ人バレバレ」の夫を連れていって 大丈夫だろうかと
一抹の不安もあったけれど
http://hanayu0413.chesuto.jp/e649853.html
奇異の目でみる人など、1人もおらず (ホッ...)
あいにく、この日は彼以外に外国からのお客さんは見かけなかったけれど
海外からの参館者も多いようで
ちゃんと英語での案内器(イヤホン付き)も
貸し出してくれました
夫は
壁一面に並んだ 特攻隊員のお顔を見上げながら
その人たちにまつわるストーリーを
熱心に英語で聞いていました。
その横顔を見ながら
何を考えているのだろう。大丈夫かなと
ちょっと心配になったりして。
「大丈夫?」と聞いてみたら
一言ぽつり
夫:They are all so young...
ホントに
まだ あどけなさの残る特攻隊員のお顔も
いくつもいくつもあった。
この日は修学旅行の団体さんも多く、
その度に館の方が 生徒たちに向けて詳しく説明してらっしゃるのを
便乗して一緒に聞けるという ラッキーなことも。
そして展示された 直筆の遺書のかずかず
その中には
必ずといっていいほど 家族への「感謝のことば」が。。。
夫に「これはなんて書いてあるの?」と訳を聞かれても
達筆すぎて読めないお手紙も(汗)
死の間際に
こんなに美しい文字で
こんなにしっかりとした文面で
感謝の言葉を綴れる若者が
この現代にどのぐらいいるだろうか。
私だって18〜19歳のときに こんな手紙は到底書けなかった。。。
自分がこの年になって改めて
その魂のこもった文字に 畏敬の念を抱かざるを得ない気持ちでした。
「お父さん、お母さん、今まで育ててくれてありがとうございました」
「恩返しもできず逝く親不孝を、お許しください」
「○○ちゃん(妹さんの名前)、お母さんのいいつけをよくきいて...」
「兄はお星様になって いつもお空から見守っています」
そうした文面を 夫のとなりで訳しながら
私:みんなただ 大事な人を守るために戦ったんだよね。
日本人もアメリカ人も それは同じだったよね。
と思わず言葉が出た。
夫:Of course
館の外にでてから 隊員が最期の数日間を過ごしたという
「三角兵舎」へ
ビックリするほど小さく
質素な小屋でした。
ここを見て回ったころには
平和会館に着いて すでに3時間近くが経過
ここまでくると
私も夫も 自然と無口でした。。。
夫:You can never justify the war. But I'm glad I came.
(戦争はぜったい正当化できない。でも、来てよかった)
最後に おとなりの観音堂で
若くして散った勇士たちのご冥福と
どうか世界中に平和がおとずれますようにと
私と夫と妹と 3人でお祈りして
帰路についた。
青空のスーッとぬける 暑い暑い9月の知覧。
この澄んだ空を
何機もの戦闘機が飛び立っていった
そして散っていった
そんな時代があったのだ。
それも、そう遠くはない昔。
そうして今 私たちが
こうして平和に暮らせてゆける。
私は かつて「鬼畜米兵」と言われた民の子孫と結婚し
「敵国」と呼ばれた土地で 平穏に暮らしている。
平和のありがたさ
そして
運命の不思議を思いました。
遠くには ひときわ凛と美しい開聞岳が
ちょっとせつない 午後でした。
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