"step mother" って日本語で何て言うんですか?
と学生に聞かれて、困ることがよくある。
実母ではないけれど、父親の婚姻の結果
法的に自分の「母親」となっている人のことだ。
「まま母」って言っちゃうと
シンデレラに床そうじさせてた、あの意地悪〜〜いおばちゃんを連想してしまう。
ちょっと違うんだよなあ。。。
日本社会では、step motherがあまり存在しなかったから言葉が無いのか
それとも
step motherも実母であるお母さんと差別しないよう、言葉を作らなかったのか
その辺は定かでないが、
とにかく ピタリ!とくる日本語が、思いつかない。
いずれにせよ
ここアメリカでは、私はマイケルの「step mother」だ。
そのマイケル。
2ヶ月ほど前から家を出て、独り立ちをめざし
仕事をしながら友達の所に居候して暮らしている。
先週の日曜日は「父の日」だったので
「ごはん食べに寄んなさい」と
マイケルを家に呼んだ。
その日、夕方6時から仕事に行かなければならなかった彼は
(ピザ屋で働いています)
長居はできなかったけれど、
久しぶりに顔を見せに立ち寄った。
顔を見たのは3週間ぶりぐらいだった。
仕事着だったせいか、
少し見ない間に随分お兄さんになったなあ〜〜と感じた。
しかも、ちょっと前まで写真を嫌がって滅多に撮らせなかったのに、
この日はカメラを向けたら ふわりと 笑顔さえみせた。
ちなみに
これは2年前のマイケル。
(この時も、日本の私の両親が送ってくれたクリスマスプレゼントのダウンジャケットのため
何とか撮らせた一枚だった)
この2枚を比べてみると、明らかに男くさくなってきたなあ〜〜というか
(ある意味、むさくるしくなってきたというか?... 笑)
成長しているのだなあと感じた。
私は今でも、ふと考え込んでしまうことがある。
私という人間が
しかも日本人という、全く異質の文化からやって来た人間が
マイケルの人生の、しかも最も多感な時期に入り込んできたことが
彼の人生にどれだけの軌道修正を強いたのだろうかということを。
夫は、自分の意思で
私という人間を選んでくれた。
でもマイケルは、そうではない。
彼は、ある意味、大人の決断に
むりやりつき合わされたようなものだ。
しかも私は異文化からやってきた人間で
例えばbreakfastといえば、
ごはん、みそ汁、漬け物に目玉焼き
と思う人間で、
朝っぱらから甘ったるいワッフルを焼いて、シロップたっぷりかけて食卓に出そうなどとは思いもしない。
家族の誰かが病気だ!となると
「おかゆ」
え? チキンスープ? 何それ?
という感じでしょうか。。。
躾にしても
「食べものを粗末にするな」
「体は親が与えてくれた贈り物だ。1つしかない、替えがきかない。大事に扱え。」
「因果応報。他人にしたことはいずれ自分に返ってくる。」
「誰も見ていないと思ってもお天道様は見ているよ」
めちゃめちゃ物質主義社会のアメリカの、ティーンエージャーが聞いたって
「はあ〜〜??」というような、(古い)日本人の信条を
そのまま口すっぱく、繰り返してきた気がする。
それが、果たしてマイケルにとって良かったのかどうか
彼にどんな影響を与えてきたのか、、、
私には分からない。
そんな事よりもこの辛辣なアメリカ社会で生き延びていくためには
もっと大切な「生きる術」があったのかもしれないが
この国で育っていない私には、その叡智が無い。
始めから、とにかく何もかもが手探りだった。
彼がそろそろ20歳になろうとしている、いまでも
果たしてこれでよかったのだろうかと
疑問ばかりが残っている気がする。。。
その日、玄関口を開けて入ってきたマイケルは
開口一番
「Happy Father's Day...」と
ぼそっと
夫に向かって言った。
そんな事、自分から率先して言う子じゃなかったので
ちょっとビックリ。
(夫も不意をつかれて「Thank you」と言いながらビックリしてた 笑)
でもそんなマイケルを見て
あ〜、大人になってきたんだなあと、、、
子供は、こうやって
親が始終そばにいなくても、自分で経験を糧にして成長してゆくのだと
そうやって自分の人生を歩いていくのだと
step mother(まま母)は、しばし感動に浸りながら
若き青年の顔を
見ていたことでした。