シアトルは、2週間前のあの大雪がウソのように
快晴の週末を迎えています。
日常の慌ただしさから、しばし離れて
ちょっと立ち止まり
今の自分を 見つめてみる。
今日はそんな日でした。
私は 自分という存在が
肉体という「個体」によって定義されるものではなく
「意識」(魂?)の存在だと
訳もなく 納得しています。
他人もしかり。
出会う人みんなが、体を超えた、何と言うかもっとそれ以上の存在だと。
なぜ生まれてきたのか?という問いに敢えて答えるとすれば
肉体を持つことに意味があったから
「肉体を持たなければ分からない(学べない)ことがあったから」
だろうなあ〜と思います。
この種のスピリチュアリズムと呼ばれる概念は、ここ10年ぐらいで日本にも広まった感がありますが
(私もそのお陰で色んなことがやっと「腑に落ちた」一人ですが)
理解した、というよりは「思い出した」という感覚です。
それを、完全に忘れていた(?)10代、20代の自分と比べると
30代、40代の自分は別人のような気さえします。
今日はちょっと 立ち止まり
自分が今まで歩いてきた道のり
今の自分を
少し振り返ってみる時間が持てました。
私の40年ちょっとの人生にはそれなりに苦労もあり、
その時には「もう立ち直れない」と思ったほどの傷を受けた経験もありますが
世の中のあらゆる困難と共に行きている他の人と比較すると
例えば、先日ここでもご紹介した
「ジョシュ」に比べると
私の今までの人生は、さほど障害のない
比較的ラクな人生だったように思えるのです。
障害のない、五体満足の体で生まれてきました。
愛してくれる家族がいました。
辛いことがあった時に、手を差し伸べてくれる人がいました。
「もうダメだ」という窮地に立たされた時に、絶妙のタイミングで救ってくれた人がいました。
人間は、生まれてくる前に自分の人生計画を立ててくるそうです。
人生で起こる困難は、実は全てが 自分が自分の成長のために計画してきたことで
つまりは逆に言うと、自分の能力レベルで乗り切れない困難は
プログラムの中に入ってないんだそうです。
「ちょっと頑張れば、解ける」問題しか、人生には起こらない。
身の丈にあった困難(人生)を
自分が自分の成長ために用意して、生まれてくる。
それは、小学生が「足し算ひき算」を習得して はじめて
その次の段階の「かけ算わり算」ができるようになるのと同じだそう。
ジョシュの記事にコメントを残して下さった、かおりん50さんもおっしゃってましたし
久しぶりに手に取って読んでみた、福島大学教授の「
飯田史彦」氏の著書にもありましたが、
重度の障害や病気、
または貧困、差別などで非常に辛い境遇にわざわざ生まれてくる子供は
その困難を乗り越える力のある、経験豊かなレベルの高い魂。
もし私が、「足し算ひき算」レベルでまだ四苦八苦している小学生だとしたら
おそらくジョシュは「微分積分」あたりをやってる高校生でしょうか。
マザーテレサのような崇高な方に至ると
大学院で卒業論文を書いているような方かもしれません。。。
そんな高レベルな方たちと、同じ学校(地球)で同じ時代に生まれ
学ばせてもらっている。
そう思うだけで、今生きているという事実を
とても謙虚に受け止めることができます。
この先、どんな困難が起こっても
「これは私が、自分のために用意したことだ」と思えば
人を恨む必要もないし
アンフェアな運命を呪うこともないし
心がラクで、自由でいられます。
それを思い出して
何だか今日は有意義な土曜日でした。
レニアの独り言でした (笑)