永遠はない

レニア

2013年11月03日 17:20

紅葉も、そろそろその体を地に落とし始め

シアトルは秋の終わりを迎えている。



目がくらむほどの緑だった木々たちは

最後の命を真っ赤に燃やし
ここまでだね、さよなら...と逝く。





夏の間、青々しく茂っていた頃よりも、私はこの
最期の瞬間の木々たちにむしろ強く命を感じる。



ふと思い出すのは、臨終の頃の
祖母の指。

90歳を超えた、意識不明のその女性は
孫がシアトルから駆けつけたことを知る由もなく

様々な機器につながれて一定のリズムで呼吸のみを繰り返し
黙って病院のベッドに横たわっていた。

目にとまったのは、指。

そのシワだらけの細く白い指。

なんて綺麗なんだろう。。。と思った。






季節の移り変わりは、形あるものには必ず終わりがくることを
私たち人間に教えてくれる。


たとえば今、自分の視界にうつるもの

目の前のパソコンのモニター
書棚に並んだ本
お気に入りのイス
デスクのとなりですやすや眠っているネコ
寝室ですやすや眠っている夫

そして、今この瞬間キーボードを叩いている自分の指

全てが、50年後には
もうひとつも存在していないだろう。
本当にひとつも。




永遠に存続するものなど無い。だからこそ今に価値がある。

終わること自体は悪ではないのだろうと思う。自然の摂理だから。
それを悲しいと受け取るのは人間の感情なんだろう。
祖母が亡くなった時は本当に悲しかった。
そしてそれは残された私という人間が感じたことだ。
当の祖母は、やっと苦しみから解放されてむしろ幸せだったかもしれない。


そうした辛い別離はこれから何度も体験するだろう。永遠に生きる人などいないのだから。



死別でなくても別れは訪れる。自分の日常に当たり前のように居た人がある日突然去ってしまうことがある。
「死」という、どうにもならない事情でなく 相手の意思で去ってゆく。

その時、残された者が受ける傷はまた違った深さと痛みがあると思う。



では何故、そこまで傷つくかというと

その人と一緒にいた自分というイメージに、自分が価値を置いていたからだ。

「あの人が存在していた私という人間」に価値があったからだ。


そのイメージが損なわれたがゆえ
「私」は傷ついているのだ。

...という本を、今読んでいる。



秋になって枯れ葉が散っていっても
それに対して腹を立てる人はいない。

「この私をおいて散ってゆくなんて。なんて非情な。裏切り者!」と
腹を立てる人はいない。


何故だろう...



それは

「葉が生い茂る木々囲まれた、ハッピーな私」というイメージに

人間が固執していないから。





殆どの人が たとえば


親に愛され慈しまれた、子供としての自分

「ママ大好き!」と言ってもらえる我が子がいる、親としての自分

職場で頼りにされている、社会人としての自分

愛してくれるパートナーがとなりにいる自分




そうした自己のイメージに価値をおいているため、
それを亡くした時に大きな傷を受ける。
絶望感に這い上がれなくなったりする...のだそう




だが、すべての出会いは別れを含んでいる。


それは青々と生い茂っていた木々がいつか葉を紅く染め散ってゆくようなもの。
人間にはどうすることもできない宇宙の真理であり、自然の摂理である。


そこに自分の存在価値を転化してはいけない。


木々が葉を落としても落とさなくても
花が咲いていても散ってしまっても
その人が、たとえ側にいても、去ってしまっても

私という人間が、今ここに在る

そのことに、その意味に、何ひとつ変わりはないのだから。

私という存在は、他者によって定義されるものではないのだから。






そう実感できた時に、人はやっと「イメージの束縛」から自由になり

「いま」と「じぶん」を堪能することができ

己を最大限に生かしてゆけるのだそう。

真の幸福感につながってゆくのだそう。




その「真理」に気付くことが
地球人類の、次の段階への

進化だそうです。



この進化をとげないと、

つまり人間が形あるもの(便利な暮らし、お金、仕事、若さ、健康な体、変わらない関係など)への執着から自分を解放し

変わりゆくものに翻弄されない、それを悲しまない
そうした「次レベル」へ意識改革を遂げないと

地球は存続が危ぶまれるのだとか。。。

(確かに地球が今直面している多くのダメージは、人間の強い「固執する気持ち」が引き起こしたものかもしれない)






週末に入って、そんな本のページをめくる時間を持て
ふと窓の外をみたら

風にあおられて木々の葉がはらはらと散ってゆく。

この木々たちは
自分の現状を少しでも長く維持しようと

戦うでもなく、抵抗するでもなく

美容液を塗るでもなく、ボトックスをうつでもなく
葉は落ちるまいと枝にしがみつくでもなく
誰かにすがったり、誰かを恨んだり
泣き叫んだりするわけでもなく


ただ、まかせている。


ただ、まかせているんだな〜、、、と思ったことでした。


私たち人間は「ただまかせる」ことから、遠く離れてしまった。











形あるものに永遠はない。

それを受け入れて初めて

形ないものの永遠を手にすることができる。

パラドックスのようだけど、、、



それに最初に気付いた人間は、イエスとブッダだったそうです。

それから2000年以上経ったというのに
人類は相変わらず、あまり代わり映えしないかもしれないな。



こんなことを偉そうに書いている私も、単純な人間の脳みそしか持ち合わせていないもので
この真理をイマイチ咀嚼できていない。


でも、意識して気付くことが

進化の始まりなのだそう

だから
意識してゆきたいと思う。




「永遠はない」 でもそれでいいやん。 受け入れるわ。






出会い 「こんにちは。会えて嬉しいな。来てくれてありがとう。よろしくね。」

別れ  「出会えてよかった。今までありがとう。さようなら。」

また出会い... 「こんにちは。来てくれてありがとう。一緒にいる間よろしくね。」






芽を出した葉が、枯れて、散って、また来年には芽を出す

始まって、終わって、また始まる。




過去や未来に自分は居ない。居るのは「いま」。

「いま」を大切に実感する。
「いま」は絶え間なくおとずれる。



それが実は、永遠なのかもしれない。